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 痛みというものにめっぽう弱い。痛いというだけで、感情も理性も、完全に持っていかれてしまう。痛みが私の支配者となる。

 昨年、料理中に包丁で小指をぐさりと切った。休日だった。病院へは行かずに自分で処置した。止血のため、手を心臓より上にあげる。痛みに耐えるだけで精いっぱい、半日ほど何も考えられなかった。傷に強い脈を感じ、心臓がそこにあるような気がした。予定していた書評の仕事は全くできない。本を開いても頭に入ってこなかった。

 本書の最大のテーマは痛みである。物語を進める原動力と言ってもいいかもしれない。

主人公の佐田山彦は、化粧品会社直属の研究所に勤める。大学院時代に遺伝子操作で痛みに鈍感な家畜をつくるチームに入ったのがきっかけだった。実験は失敗し、動物保護団体などからの抗議でチームは解散。山彦は化粧品会社の先輩から声をかけられて研究所に就職し、今は敏感肌の研究をしている。

 山彦の最大の悩みは、肩から腕にかけての痛みだ。ペインクリニックの診断は「肩関節周囲炎」、いわゆる「四十肩」や「五十肩」だが、山彦はまだ30代。他にも頭痛持ちで、腰痛もあり、頸椎ヘルニアまで発症する。

 「痛みというアラームが体に鳴り響くと、自分という大地を構成する地層の奥深くにある何かが、今にも大きく揺らいで、大げさに言うと、存在の基盤、のようなものが崩れ落ちそうになる。『痛み』が昔馴染みの『不安』を強烈に覚醒させ、活性化するからだと思っている」

 ああ、この山彦の考察の切実さよ。そう、痛みと不安は結びついている。「存在の基盤が崩れ落ちそうな不安」。ここを読みながら確信した。著者の梨木香歩は、実際にひどい痛みに苦しんだ経験があるか、今も苦しんでいる。

 ここまで主人公の名を「山彦」と書いてきたが、これは通称で、本名は「山幸彦」という。彼には「海子」という名の従妹がいる。本名は「海幸比子」。彼女もさまざまな痛みに苦しんでいた。

 2人の名前を聞いて、ピンとくる方も多いだろう。古事記や日本書紀に出てくる「海幸山幸」である。山幸彦と海幸比子の名前は、2人の祖父、藪彦のこだわりがきっかけでつけられた。いったいどんな意味があるのか。

山彦は海子に勧められた鍼灸院を訪ねる。そこで彼を待っていたのは鍼灸師の仮縫(かりぬい)と、その双子の妹、亀子(かめし)。霊能力があるらしい亀子は、山彦の治癒のためには稲荷が手助けしてくれること、そこへ行って油揚げを供えるよう、亡き祖父(藪彦)が言っていることを告げる。山彦はお告げに従い、祖先の地・椿宿(つばきしゅく)へ亀子と向かう。

 亀子との珍道中を経て、椿宿に着いた山彦は、過去の物語に出会う。佐田一族のことだけではなく、家が目撃してきたであろう陰惨な事件、そして椿宿という土地の歴史。そこには治水を巡る葛藤も大きく関わっていた。

生と死、現実と神話が渾然一体となり、物語の重層性が徐々に増していく。幻想的でユーモラス。痛みが語られているのになぜか、読み手は優しく癒やされてゆく。

 「人生の、無様でみっともない『当事者』になるなど、私には、到底受け入れられることではなかった」という山彦が、やがて自らの痛みにより、否応なく「当事者」となってゆく。痛みに耐える時間もまた、人生の一部なのだと気づかされる。

(朝日新聞出版 1500円+税)=田村文

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