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 時代の空気が見事に表現されている。底辺をのたうち回る人々の息遣いのようなものを現出させているのだ。

 昭和犯罪史に残る「吉展ちゃん事件」に想を得た奥田英朗の小説『罪の轍』は、東京オリンピックに向けてブルドーザーのように突き進む日本社会からこぼれ落ちてしまった人々の群像劇である。

 作家は、1963(昭和38)年の北海道・礼文島から筆を起こす。

 ニシン漁がすっかりすたれてしまった村で、宇野寛治は昆布漁の仕事を手伝っている。網元の番屋に寝泊まりし、周囲の漁師たちに怒鳴られ、ばかにされながら働いている若者だ。

 人に言われたことをすぐに忘れる。だから中学を卒業後に集団就職した札幌の部品工場をクビになり、島に戻ってきた。生き延びるための窃盗の技術だけは磨かれていた。やがて寛治は、漁師仲間の一人に騙され、命の危険にさらされながら島を脱出する。そして窃盗で食いつなぎながら東京に向かう。

 場面はオリンピック開催を翌年に控え、好景気に沸く東京へ。重要な舞台の一つは、日雇い労働者のあふれる山谷である。そこで簡易宿泊所を営む母親の仕事を手伝っている町井ミキ子の視点で、この町が語られてゆく。

 ミキ子の両親は昭和の初めに済州島から来た在日コリアン1世で、父親はやくざの組長だった。その父親が亡くなった後、母親ともども日本に帰化した。

 ミキ子は「ゴミと汗と酒の臭いが充満」しているこの町から出ていくことを夢見ながら、どこかで愛着も持っている。最近、やくざの仲間入りをした弟の明男が、空き巣の寛治と知り合いになった。明男は寛治のことを「ただのケチな空き巣で人はいいんだよ、莫迦だから」と言う。

 人事院が公務員給与の引き上げを勧告したという新聞記事に小躍りしているのは、警視庁刑事部捜査1課の刑事、落合昌夫、29歳だ。昌夫や後輩の岩村傑は大卒で、それだけでしばしば皮肉を言われる。つまり、大学にはなかなか進めない時代だった。

 元時計商、山田金次郎が殺される事件が起きる。捜査の中で昌夫は、子どもたちから「莫迦」とか「ルンペン」と呼ばれている男に目を付ける。それが、宇野寛治だった。

 事件解決の糸口が見えかけたとき、誘拐事件が発生する。さらわれたのは、浅草の豆腐屋の息子、小学1年生の鈴木吉夫だった。

 犯人からの電話、身代金の要求、警察の失態…。警視総監がテレビに出演して、犯人に訴えかける。

 解決までの道のりは、現代から見ればまるで獣道である。電話やテレビの位置づけが今とはまったく違うからか。

 時代の空気を醸しだすために、作家は値段を事細かに記す。例えば東京・上野から北海道・稚内への出張費用は1人片道3830円、飛行機を使うなんて、とんでもない話である。電話を引くには1万円、一般家庭ではなかなか手が出なかった。

 山谷の日雇い労働者の日当は平均千円、簡易旅館は1泊200円、コップ酒は1杯30円…。次々に示される数字が、誘拐事件の身代金「50万円」のリアルさも浮き立たせる。

 クライマックスは、刑事と容疑者との取り調べ中の駆け引きだ。しかし作家は、明確な動機を読者に提示するわけではない。それでも、容疑者の成育歴や、親や周囲の人々との関わりを描くことで、その孤独を浮き彫りにする。

 具体的な細部の描写を積み重ねることで時代そのものを描き、その中に事件を静かに、丁寧に置いた。

(新潮社 1800円+税)=田村文

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