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 省かれる女たちを描いた短編集だ。『木になった亜沙』の主人公は、幼い頃から、自分が差し出した食べ物を、なぜか誰にも食べてもらえない女の物語。彼女が指先から水槽へ落としたエサを金魚たちは食べようとせず、給食係になると自分のおかずの列には誰も並ばない。絶望のうちに生命を落とした彼女は、杉の木として生まれ変わり、食べ物を人の口へと運ぶ「わりばし」になる。

 『的になった七未』は、自分に向けて投げつけられたものたちが、なぜか自分の身体には決して当たらない女の物語だ。幼い日の、どんぐりの投げあいっこ。ドッジボール。決してはずれようのない至近距離から、彼女に向けて投げつけられたものたちは、なぜか、自分の身体をかわして、隣の人や、背後の木々に当たって砕ける。いつか、自分も、当たりたい。そんな欲求は七未の脳内で熟成され、波乱万丈の生涯を経て、現実と非現実をごちゃまぜにする。

 最後に収められた『ある夜の思い出』も秀逸だ。学校を卒業してから15年間、無職で、実家でごろごろしながら生きてきた主人公。腹ばいになったまま家の中を移動し、腹ばいになったままテレビを観たり漫画を読んだりして、腹ばいになったまま父の叱責をかわしながら生きてきた。そんな彼女が、腹ばいになったまま、家を飛び出す。そこで、自分と同類の男と出会うのだ。

 どの主人公たちも、強い欲求を胸中にぐるぐると渦巻かせている。人に、ものを食べさせたい。人が投げたものに当たりたい。どんなときも、ごろごろと暮らしたい。実にささやかな望みだ。それを望みさえしなければ、無難に、静かに、生きてはいける。けれど彼女たちはそれらの欲求を捨てることをしない。何かを望みながら生きるということ。思えば、どんな人も、その権利を享受しながら生きている。

 けれど私たちは、同時にそれらの望みを、捨てながら生きている。この望みは叶わない、そうわかれば、なんとかして手放す。そして最初から何も望んでいなかったみたいな顔をして次に行く。それが大人の処世術ってなもんである、とか何とか自分に言い聞かせながら生きる。

 手放さなかったら、どうなっていたのかな。こんなふうに、宙に浮いた望みを、こじらせながら生きていただろうか。本書はどちらかといえばファンタジーだけれど、でも彼女たちの心象風景は、とてもリアルに読み手の胸に迫る。切実で痛烈な、これらは人生の希望の物語である。

(文藝春秋 1200円+税)=小川志津子

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