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 伊藤比呂美の文学の核にあるものは何かと考えてゆくと、「漂泊」とか「道行き」という言葉に行き着く。

 米国に移民として暮らしながら、日本との間を頻繁に行き来していた時期に書かれた作品群から受けるイメージの影響はもちろんある。だが、それだけではない。

 どこへいっても異邦人としてさまよい続けている。常に生と死の間を、現実と非現実の間を往還している。そして何より、結局は根無し草でしかありえない女たちの声を背負っている。だから、彼女の作品を読んでいるうちに思い出すのだ。自分も孤独だということを。人生はたった一人の旅であるということを。

 特に本書「道行きや」の寂寥感は半端なかった。読み終わった時に私は、荒野を歩く一匹のみすぼらしい雌犬に成り果てていた。そして、それは決して悪い気分ではなかった。ある種のすがすがしささえあった。

 「国を離れて二十数年、異国をさんざん流離して、わたしは国に帰ってきた。今はまったく浦島である」。そんな文章で始まる「うらしま」を筆頭に、22編が収められている。

 長年暮らした米国から「片道切符で」日本に帰ってきた「わたし」は、米国から連れてきた犬(ジャーマン・シェパード)と熊本に住み、東京に通う日々を送っている。相変わらず、移動しているのだ。東京では早稲田大学で教えている。

 熊本や東京での身辺雑記や、米国で暮らしていたころの思い出、時にはポーランドに住んでいた遠い過去も混じり合って、60歳を過ぎた「わたし」の日常がつづられていく。といっても、エッセーとは違うように思う。散文詩と呼びたい。これは詩なのだ。

 大学で学生に接しているとき、「わたし」はリアクションペーパー(授業に対する学生の感想)に書かれた文言を気に病みながらも、若者たちのエネルギーを受け止めて生き生きしている。でも文章として面白いのはむしろ、熊本での日々だ。少し気の弱い犬を連れて歩き回るっている「わたし」。河原にいる古老と話し、燕や鴉、草花を観察している。

 「山のからだ」という一編には不思議な魅力がある。家の近くにある立田山には「山の神が三体在る」のだが、「わたしは、この三体めの山の神に気に入られている」と書く。石の祠の前に立つと「全身をわしづかみにされたような」気がする。山道に迷い、何度もここに戻って来てしまう。

 名前の読みが同じ「ヨーコ」という女友達数人のエピソードも興味深い。「死ぬときはどこだろうか、日本だろうか、ここだろうか。誰とも会えなくなるね。誰とも会えなくなるのは寂しいだろうかね」。そんな会話をいろんなヨーコさんと交わしたような気がするのだという。

 22編すべて、終わり方がたまらなくいい。バサッといきなり幕がおろされて、独特な余韻を残すのだ。

 「燕と猫」の最後の一段落はこう記される。

「あたりはいよいよ暗くなり、上空はしんと黒ずみ、西の空にだけ明るさが薄く残っていた。その中で、何千何万という燕たちがさらに飛び交い、降りるというよりは落ちるように、寝に行くというよりは死にに行くように、とめどなく、ほんとうにとめどなく、空から降ってくるのだった」

 そして、読者の私は荒野に残される。強い風が吹いている。

(新潮社 1800円+税)=田村文

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