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 中島敦の短編小説『名人伝』を思い出した。古代中国で弓の名人となるべく師を訪ね、神技を極める修行者の物語だ。片やこちらは大工道具職人たちの入神の技と処世について3代目道具店主にして研究家、技術者が記した実話である。しかも昭和から平成にかけた同時代の話であることに驚かされる。

不世出の道具鍛冶、千代鶴是秀の謦咳に接した父を師に持った著者は、自らが幼少より交わった職人たちの目を見張る仕事ぶり、伝え聞いた逸話を時代の移りゆきとともに書きとどめた。

 例えば、かんな刃を河原で研ぎ始めた腕利き大工の話。どうしても刃の研磨痕が消えないため、研ぎ場を求めて上流に上流にとさかのぼっていく。納得のいく仕上がりを得たのは苔むす源流の地だった。完璧な研ぎにはゴミやほこりのない、水も空気も清浄な場が必要だったのだ。

 熟練の技を持ちながら新技術を取り入れて時代に伴走した名門鍛冶職人、老大家を店外に待たせたまま仕事場を小一時間掃き清めたのちに招き入れた著者の祖父、廃業後に木製の仏塔模型に技巧の粋を凝らした名人建具師--。

 技術革新と大量消費社会は磨き抜かれた技術の系譜を絶ち、老名工たちの退場を促した。手練の職人仕事を正確無比に再現する達意の筆致で描かれるその栄光と衰微は、哀切の響きを伴って胸に迫る。

 本書の最後に、名品・名工という称号を避け、ひたすら実用道具作りに徹した鍛冶職人の一生が畏敬と愛惜の念を込めてつづられる。ブランドや名声を追い求めれば、消耗品たる道具を提供する職人の本分から遊離する。確たる信念に基づくその生きざまを、著者は名品・名工を研究し讃仰する自らへの戒めとしたに違いない。

 『名人伝』の主人公は修行の果てに弓という道具名さえ忘れ去るに至る。名人の虚妄と偶像化の愚を突いた寓話とも受け取れる。神格化は正気を追いやるという強烈な自覚が、本書を単なる名工列伝に収まらない名著にしている。

(みすず書房 4500円+税)=片岡義博

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