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 松井今朝子が初代市川團十郎(1660~1704年)を書いたと聞き、心の中で「待ってました!」と叫んだ。歌舞伎ものを得意とする作家が、大名跡の原点で荒事の開祖、舞台上で殺されたことでも知られるこの役者をどんなふうに描くのか、ドキドキしながら本を開く。

 時は江戸初期、主な視点人物はのちに團十郎の妻となる恵以(えい)である。物語の冒頭で恵以は6歳、土中に入定する修行僧を見に集まっている群衆の中に父とともにいる。子供の目にそれは「大勢がよってたかって一人の人間を生き埋めにするとしか見えない惨たらしい光景」と映る。無情な大人たちに囲まれた恵以が周囲を見渡すと、一人の少年が目に入る。

 「顔の輪郭は子供らしくふっくらしていても、鼻筋がみごとに通って大人びた顔立ちである。彼方の惨たらしい光景に片眉をきりりと持ち上げ、唇を真一文字に引き結んで、じいっと見入ったところがまた実に大人顔負けの表情なのだ」

 恵以はしばし見とれる。視線に気づいた少年と目が合う。彼の強い眼差しに威圧されるが、恵以は目をそらさない-。

 團十郎と恵以の出会いである。人の死に群がり興奮する人々、その中で孤独を感じる恵以と、同じ場に居合わせた少年とのひそやかな共感…。物語全体を象徴する鮮烈な導入シーンでもある。

 初舞台も印象的だ。りんりんと響き渡る声。全身を丹塗りして「真っ赤なかたまり」となった少年に沸く観客。少年は岩石を模した紙張子をビリビリと破って観客に投げつけ、舞台は収拾がつかなくなる。人の気持ちを一瞬でさらっていく才能の発露だ。

 やがて2人は結ばれる。團十郎はどんどん人気を得てゆく。常に人があっと驚くような斬新で型破りな演出を考える。舞台では誰より大きく見える。

 だがどれだけ才能があって、人より努力をしても、大スターになるには時の運が味方につかなくてはならない。では、どんな時代だったのか。生類憐みの令に庶民が不満を募らせ、赤穂浪士による仇討ちの知らせが町を駆け巡る。大地震が起き、大火が発生する。

 次から次へと起こる天変地異や悪政の中でもがく人々が、舞台の上で大暴れする役者に心を奪われるのは、至極当然な帰結なのかもしれない。しかし、役者本人は命を削って舞台に立っているのだ。

 團十郎は胸中でつぶやく。「荒事の真意を一口でいえば常人を超えることではないか。常人が持てない力、人智を超えた知恵を備えた男が常人の何層倍にも膨らんで見え、天地の間すなわち宇宙に立ち尽くすのだ」

 刺殺されるまでの経緯や理由は本書のクライマックスの一つだが、読んでなお謎が残る。いずれにしても他人の手によって命を絶たれるなんて、どんな理由があっても理不尽極まりない。無念がずしりと重く胸に残る。

 物語はそこで終わらない。二代目が團十郎の名跡を継ぎ、荒事の精神を受け継いでいく。父の偉大さに苦しみながら、自分の芸を見いだしていくのだ。修羅の道を行く夫と息子に寄り添う恵以の道程もまた、修羅のそれだ。

 荒事とは何か。終盤、恵以は夫を思い出しながら思う。「荒事の魂は憤りだ。それは遺恨もあれば慚愧もある。悪辣な敵に向けられ、不甲斐ない自身にも向けられるのだ。さらにはこの世界のあらゆる理不尽を断じて許せぬ激しい憤りが総身に充ち満ちて炎のごとくに燃えさかる様を、神仏の忿怒の相を借りて発現するのが荒事だった」

 荒事の魂はいまに息づいている。現代の政治状況や降りかかる災厄に憤っていたり、不満や不安を感じていたりするのなら、歌舞伎を見に行こう。まもなく、新たな團十郎が姿を現す。

(文藝春秋 1900円+税)=田村文

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