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 年齢を重ねるごとに、人生経験は降り積もってゆくのだから、この世界を渡り歩く足取りは、揺るがない、確かなものになっていくのだと思っていた。若い頃にはわからなかったことが、歳を取るとわかるようになるのだから、前進することや変化することへの、恐れや緊張は和らいでいくのだと、そんなふうに思っていた。……違った。全然違ったのだ。

 本書は、マルチな才能を全方向に発揮しまくりながら、その「人生経験」を重ねてきたはずのクリエイター、いとうせいこうの「ど忘れ」を集めた一冊である。彼はただただ、手持ちのスケッチブックに、自分がこれまで「ど忘れ」してしまった単語のすべてを、筆ペンで書き溜めてきた。その始まりは東日本大震災の年のこと。つまり今から10年近く前から、博識であるはずの彼がしでかした「ど忘れ」が、ひとつひとつ、記録されてきたのである。

 そうやってしたためられてきた「ど忘れ書道」に、いかにいとうが「ど忘れ」をぶちかましてきたか、なぜこんな単語を「ど忘れ」してしまったのか、その分析エッセイがみっちりと添えられている。すべてのオーバー40が、膝を打ちまくって共感するはずである。「ど忘れ」は、自分が想像もしなかった瞬間に起こる。こともあろうに、そんな単語を忘れるはずがないと信じ切っているその単語に、狙いすましたかのように霞がかかる。びっくりする。びっくりしすぎて、なすすべを失う。失いながらも、しかし世間一般の「ど忘れ」といとうせいこうの「ど忘れ」がはっきりと異なるのは、「それが判明した時点で筆ペンで書き留める」という工程の発明である。「なにをど忘れしたかを覚えておく」という営みの稀有さである。

 その、ど忘れしてしまった単語を、取り戻していく過程が壮絶に面白い。私は「ヒャダイン」を取り戻すまでの過程に、ひっくり返って笑った。この工程のおかげで、人の記憶力が格段に向上するとかいった効能は特に証明されていない。ボケが遠ざかるとか、なんたらいうホルモンバランスが整うとか、そういうメリットが報告されているわけではまったくない。けれど、「忘却」つまり「喪失」してしまったものを、「筆ペンで書き留める」という営みが、少なくとも、この1冊を生み出した。喪失が、なにかを生み出す。その事実にとても救われる。壊れゆく自分への恐れと、その恐れとうまくやっていくための知恵。本書は、そのかたまりなのである。

(ミシマ社 1600円+税)=小川志津子

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