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 「心を入れ替える」という慣用表現がある。今日からは心を入れ替えたように働こうとか、心が入れ替わったみたいに優しくなったねとか。本書の作品世界に生きる人々には、ある程度の日数を経ると、文字通りの「入れ替わり」が起きる。

 例えば、大きな夫婦喧嘩の後。ふて寝した妻が明け方起き出すと、後ろから夫に呼び止められる。振り向くと、顔立ちも図体も、昨日とはまるで違う男が謝ってくる。でもそれは、まぎれもなく、夫なのである。

 人はみな、入れ替わる。それがこの物語の大前提である。どんなに悲しい出来事が起きても、何ヶ月かごとに「入れ替わる」ことで、その記憶が遠い過去になってゆく。夫の浮気に歯噛みしても、傷ついた恋人のために涙しても、「入れ替わり」のおかげでそれらはすぐに他人事になる。そうやって人は「穏やかで均された世界」を手に入れた。怒りに震えて泣くことも、昔の過ちを思い出して顔を赤らめるようなこともない。

 そういう世界に生きる人々の心象風景が、ひとつ、またひとつと描かれていく。ひとつひとつに、大きな抑揚はない。しかし、徐々に彼らとは異質な人々の存在がちらほらし始める。「感情」を持つ人々。「入れ替わらない」人々。彼らは、心に感情を積もらせることで、自らをこわばらせ、だから「入れ替わり」が起きにくいのだ--。

 私たちは、過去の思いに地団駄を踏みながら生きている。あのとき、ああ言えばよかった。あのとき、あんなことを言わなければよかった。仕事をしながら、ごはんを食べながら、不意に思い出されて身をよじる。決定的な決別や絶望に、胸をズブリと、刺し貫かれる。その「ズブリ」が、長い年月をかけて「チクリ」になり、やがてめったに思い出さなくなる。ああ、やっと忘れられた。そう思っても、思いも寄らないところでまた「ズブリ」が戻ってきたりもする。私たちは、「入れ替わる」自分と「入れ替わらない」自分を併せ持ちながら生きる。

 そのことに感謝する瞬間と、そのことを悔いる瞬間と。この本を読むひとときは、そんな行ったり来たりでできているのだ。

(寿郎社 1500円+税)=小川志津子

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