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尼崎JR脱線事故

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マンションに激突した快速電車の車両。警察官や消防隊員だけではなく、近隣企業からも多くの社員が救助に出向いた=2005年4月25日、尼崎市内
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マンションに激突した快速電車の車両。警察官や消防隊員だけではなく、近隣企業からも多くの社員が救助に出向いた=2005年4月25日、尼崎市内
地面に横たわる乗客や搬送される負傷者らであふれた事故現場周辺=2005年4月25日、尼崎市内
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地面に横たわる乗客や搬送される負傷者らであふれた事故現場周辺=2005年4月25日、尼崎市内
事故現場に整備された「祈りの杜(もり)」の横を走るJRの電車=尼崎市内
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事故現場に整備された「祈りの杜(もり)」の横を走るJRの電車=尼崎市内

 脱線現場西側の線路沿いには、傷ついた乗客たちが体を横たえていた。

 「生きているのか、亡くなっているのか-。判別できない。そんな人たちがたくさんいた」(当時31歳、中学校教諭の杉谷剛一さん)

 すぐそばにある尼崎市立大成中学校(兵庫県尼崎市)。1時間目の授業を終えた直後の杉谷さんは、吹奏楽部の楽器をくるむ毛布を持ち出し、乗客たちに掛けていった。

 中に1人の女性がいた。杉谷さんは首から下に毛布を掛けた。直後に来た救急隊員がトリアージのためか、何かを確認する。そして毛布を、女性の顔を覆うように掛け直した。

 混乱した声。2005年4月25日午前9時18分の事故発生からまもなく、尼崎市消防局に1本の通報が入った。「すいません、あのね、えーと、えーと…」「電車が、JR宝塚線なんですけど、目の前で脱線です」

 当時43歳の吉野千春さん=尼崎市=は自宅から近くに住む母の家に行く途中、目の前で電車が横転した。

 方々からうめき声。近くの尼崎市公設地方卸売市場で水をもらい、負傷者の血を拭った。「とにかく助けなくちゃ」。体が勝手に動いた。

 「駆け付けた警察官に『あなたも血だらけですよ』と。けがをした人たちの血だった」(吉野さん)

 「自動車整備会社の一角に20人ぐらいが寝かされていた。臨時でできた遺体の安置場だったことを後で知った」(当時39、「角倉商店」社長の角倉克彦さん)

 卸売市場内にある会社に配送先から戻り、事故を知る。現場に着いたのが午前10時前。既に多くの人が駆け付けていた。遺体や負傷者を運ぶ手伝いをした。

 阪神・淡路大震災で、自宅がある西宮市の惨状を目の当たりに。それでも思わざるを得なかった。「こんなことほんまにあるんか」

 「想像を絶する光景だった。でも、命を助けるためにみんなが一生懸命だった」(角倉さん)

 近隣自治体から次々と応援部隊が到着する。辺りはガソリン臭に満ち、救助活動は難航した。

 「まず、どれが2両目か分からなかった」(当時40、芦屋市消防本部救助隊員の濱田康男さん)

 車両から人が出るスペースをつくるだけで数時間かかった。「頑張れ」。自然と声が出ていた。

 時間を忘れて救助に駆け回った吉野さん。何時に帰宅したかも分からないほどふらふらだった。

 「夢やったらいいのに。そう思って翌朝を迎えた」(吉野さん)

 次の日、ニュースを見た。夢ではなかった。

    ◆

 あの日から、それぞれの15年がたった。1両目後方左側座席に座っていた当時会社員の女性Aさん(47)=西宮市=の心には、今も申し訳なさがつきまとう。

 「生きててごめんなさい。遺族のことを思うと、そう考えてしまう。消せない。消せないんです。だから、その気持ちと一緒に生きていく」

 今は2人の子の母。ゆっくりとでも、事故のことを話していこうと思っている。

 1両目で背骨を折る重傷を負った当時大学生の男性Bさん(33)=伊丹市=は、病院のシステム管理をするエンジニアになった。医療に貢献したいと思ったからだ。宝塚線を使い、大阪市内に通勤する。

 「自分に何ができるのか。せめてもの思いで、取材に気持ちを話している」

 青い空の下、電車は今日もあの場所を走っている。

(大盛周平、大田将之、名倉あかり、久保田麻依子)

2020/4/27

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