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尼崎JR脱線事故

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頭を下げる関係者の前で涙をぬぐう姿も=尼崎記念公園総合体育館
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頭を下げる関係者の前で涙をぬぐう姿も=尼崎記念公園総合体育館
遺体安置所で遺族と対面した後、謝罪の意を述べるJR西日本の幹部=尼崎記念公園総合体育館
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遺体安置所で遺族と対面した後、謝罪の意を述べるJR西日本の幹部=尼崎記念公園総合体育館
運び出された乗客の遺体に手を合わせる関係者ら(手前)=尼崎市久々知3
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運び出された乗客の遺体に手を合わせる関係者ら(手前)=尼崎市久々知3

 事故から3日が過ぎ、遺体安置所には数組の家族しか残っていなかった。

 2005年4月28日昼すぎ、体育館の地下1階の部屋。当時40代の会社員だった阪神間在住のIさんはパイプ椅子に座り、無言でテレビを見詰めていた。そばに座る妻と次男も疲れ切っていた。大学生だった長男とは連絡がとれていない。

 「時間がたつにつれて絶望的な気持ちになりました。学校にも行っていないということは、事故現場にいるしかないんだから…」

 25日午前、会社にいて妻から「(長男が)あの電車に乗っていたかもしれない」と携帯電話にメールがあった。職場のテレビに、ひしゃげた事故車両が映る。手当たり次第に病院を探しても見つからなかった。

 地下の部屋で待っていると、遺体の顔写真が随時出てくる。血だらけだったり、腫れあがっていたり。仮眠室が用意されたが、不安で一睡もできない。自宅に一時帰ってもすぐ戻った。

 体育館の玄関前には100人近い報道陣が集まり、時には1人を数十人で取り囲んだ。Iさんは何も語らずに入った。ガラス戸には、中を撮影できないように目隠しの板が張られた。

 「待つ家族はみんなイライラしてました。そうならない方がおかしい。JRの社員に『何で責任者が説明しないのか』と大声を出す人とかね。今思うと、社員も大変だったと思います」

 27日夜、事故現場では消防が2両目の救助を終え、最後の1両目に取り掛かる。収容した92体の遺体は1体を除いて身元が分かり、待つ家族は一気に減った。

 28日午後3時ごろ、Iさんはしんとした部屋で名前を呼ばれた。アリーナは検視の仕切り板がなくなって広々とし、手前の方に棺が数体分だけ置かれている。

 妻と次男は対面しても、もう泣かなかった。長男を寝台車に乗せる。背丈が棺より大きく、無理やり足を折られて入れられていたことはまだ知らない。

 自宅マンションに着くと、十数人の記者が廊下で待ち構えていた。「お話を聞かせてください」。腹が立ち、つい口走った。

 「『息子が死んでうれしいです』。そう言えば帰ると思って扉を閉めた。そっとしておいてほしかった」

 本人の許可なく実名や顔写真を出すことにも配慮がないと感じていた。それは今も変わらない。ただ、いつしか親として長男にできることは、二度と同じ事故が起こらないようにJRに働き掛けることだと思うようになった。電車のドアが開閉する時間や運行速度を一つ一つチェックして改善を呼び掛けた。取材に応えるようになったのも、再発防止への思いからだ。

 家に入り、長男が持っていた財布を開いた。油の臭いがしみこんで、ぐにゃりと折り曲がった10円玉が入っていた。どれだけ強い衝撃だったのか。なぜ長男が死ななければならなかったのか。もっといろんなことを経験させてやりたかった、と止めどなく思った。

 午後8時20分、体育館で待つ家族は全員が遺族となり、遺体安置所は閉じた。不安から絶望に変わった遺族。疲れた表情で検視を続けた警察官。土下座するJR社員。遺族を追いかける報道陣…。そこは事故の「第2の現場」と呼ばれた。

 Iさんは今、実名での取材は受けていない。理由の一つは、JRに安全を考えてくれる社員が一定程度増えたことへの評価。もう一つは妻への配慮という。

 「やっぱり近所の人に知られると、妻がしんどそうなんです。昔のママ友に気を遣われるのも、遣うのも。長男の友人は大学を卒業して結婚し、子どもが産まれていく。事故の話を聞くと、やっぱり苦しい。亡くなってもね、今も昔も親なんです」(取材班)

2020/4/27

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