連載・特集 連載・特集 プレミアムボックス

第8部 日本ジャバラ工業社長 田中信吾さん

  • 印刷
阪神・淡路大震災当時の神戸市兵庫区水木通の本社屋(左)。隣の民家は倒壊している(1995年1月25日撮影、日本ジャバラ工業提供) 神戸新聞NEXT
拡大

阪神・淡路大震災当時の神戸市兵庫区水木通の本社屋(左)。隣の民家は倒壊している(1995年1月25日撮影、日本ジャバラ工業提供)

神戸新聞NEXT

  • 阪神・淡路大震災当時の神戸市兵庫区水木通の本社屋(左)。隣の民家は倒壊している(1995年1月25日撮影、日本ジャバラ工業提供)
  • 神戸新聞NEXT

阪神・淡路大震災当時の神戸市兵庫区水木通の本社屋(左)。隣の民家は倒壊している(1995年1月25日撮影、日本ジャバラ工業提供) 神戸新聞NEXT

阪神・淡路大震災当時の神戸市兵庫区水木通の本社屋(左)。隣の民家は倒壊している(1995年1月25日撮影、日本ジャバラ工業提供)

神戸新聞NEXT

  • 阪神・淡路大震災当時の神戸市兵庫区水木通の本社屋(左)。隣の民家は倒壊している(1995年1月25日撮影、日本ジャバラ工業提供)
  • 神戸新聞NEXT

 1986年、40歳で父の後を継ぎ、日本ジャバラ工業(神戸市兵庫区)の社長に就任した田中信吾さん(69)。会社は、工作機械の進化に合わせて鉄製ジャバラを自社生産し、成長軌道に乗っていた。しかし、85年のプラザ合意で経営環境は急速に悪化。バブル経済とその崩壊、阪神・淡路大震災-と、めまぐるしい情勢の変化にほんろうされる。(西井由比子)

 -景気の後退局面で社長に就いた。

 円高不況で輸出産業が一気にだめになった。企業の設備投資は減退し、工作機械は売れなくなる。当時の売上高は、今の4分の1以下の7億円程度。経費を切り詰め、赤字こそ出さなかったものの収益は低迷した。ジャバラは工作機械によって求められる素材や形状がさまざまなので、完全受注生産だ。発注者の設備投資に左右され、機械部品メーカーとしては受け身にならざるを得ない。80年代後半は景気拡大でよく売れたが、90年代に入ってバブルが崩壊するとまた注文が入らず、今度は赤字に陥った。景気が回復するのをじっと待っていたとき、阪神・淡路大震災に襲われた。

 -当時の状況は。

 本社ビルは崩れずに済んだ。創業時、本社は中央区にあったが、手狭になり64年、兵庫区に移転。その後、90年に、そこから近い場所に現本社ビルを建てた。社屋はまだ新しく、倒壊こそしなかったが「半壊」と判定されることになる。

 隣の民家は全壊していたし、周辺の交通はまひしていたので、何の被害もなかった三木工場に本社機能を移すことを即決した。幸いに社員も全員無事。発生した日の翌朝から数日かけて、交通規制が始まる前の早朝にジャバラの図面や伝票、帳簿など必要な荷物をトラックで三木工場に運んだ。結果的にこの判断が会社を救った。

 -多くの被災企業が取引先を失い、倒産した。

 本社機能の移転と並行して、約千社に上る全取引先への連絡を進めた。三木工場が無傷で、本社機能を一時的に三木に移したことや、生産は平常通りで納期を守られることをファクスで伝えた。取引先の大半が兵庫県外の企業で、こちらの状況など分かろうはずもなかったから早く安心させたかった。おかげで、取引先は一つも同業他社に奪われずに済んだ。

 -当座の危機は乗り切った。

 それでも、言いようのない不安に駆られた。経営者とは孤独なものだ。昼間は非常事態に気が張り、独裁者のように振る舞いもしたが、夜眠りにつくとうなされ、よく寝言も言っていたらしい。当時、革ジャンを着てミニバイクに乗り、運転資金の調達のため銀行回りに奔走していたが、大阪まで出れば、何ら変わらない日常が広がっていた。衝撃だった。神戸だけ時間が止まっていた。

 社屋の半壊判定を受け、中小企業向けの災害復旧融資で5千万円の低利融資を受けると、全額を新製品の開発につぎ込む決意をした。新しいことをして活路を見いださないと、取り残されてつぶれると思った。生きるか死ぬかの賭けだった。

 ▼災害復旧融資 阪神・淡路大震災で被災した中小企業向けに、兵庫県と、神戸、西宮など被災9市が1995年2~8月にかけて実施した制度融資。県信用保証協会の保証を条件に、設備・運転資金として金融機関を通して低利で貸し付けた。上限は5千万円。保証承諾実績は4万7011件、5421億7900万円。

2016/1/13

天気(8月23日)

  • 33℃
  • 27℃
  • 30%

  • 34℃
  • 25℃
  • 30%

  • 35℃
  • 27℃
  • 20%

  • 34℃
  • 25℃
  • 40%

お知らせ