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加藤一二三のひふみん伝説

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名人を獲得した時の加藤九段(1982年)
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名人を獲得した時の加藤九段(1982年)

名人を獲得した時の加藤九段(1982年)

名人を獲得した時の加藤九段(1982年)

 1973年度の名人戦の挑戦者になった。名人戦は1937年に創設されている。以後、棋士の生活が安定し将棋界は発展を遂げてきた。

 共同通信社も早くから「日本一杯争奪戦」 「最強者戦」などを主催し、棋界の発展に貢献してきた。1975年にはタイトル戦の「棋王戦」を創設して、今期で41期を迎えている。

 1973年度の名人戦7番勝負は、同年4月から開始された。中原誠名人に私が挑戦した。中原名人は前年、不敗を誇った大山名人に大接戦の末に勝って名人となった。中原さんが名人となった翌日、主催者の朝日新聞社の業務局に中原名人があいさつに訪れたが、先導したのが私であった。私は名人戦の速報解説を社のそばの大盤解説場で担当した。その故であった。この日、私は翌年の名人戦に出るとは全く思ってもみなかった。1973年4月に始まった名人戦は私の4連敗で終わった。当時、対中原戦は1勝19敗であったので、ある意味4連敗はやむを得ないと考えられる。

 キリスト教の洗礼を受けていた私は、神様に祈って全力を尽くしたが及ばなかった。しかし負けた直後の5月28日、受洗した下井草カトリック教会でごミサに与った時、神秘的な経験をした。私はいつの日か名人になれるというふうに受け止めた。神様との個人的な出会いとは言っても実際に神様の御顔を見るというものではない。旧約聖書に出てくる偉大なモーゼも神様の御顔は見ていない。「開けっ広げにできるものではない」と、先のローマ法王ベネディクト16世は話している。同時に「キリスト教を伝える時に経験を語らないと人には十分に伝わらない」とも法王は書いている。

 知恵が求められる。中原名人とは互いに得意な矢倉で闘ったが、中原名人に巧みに攻められて完敗。後日、洋画家の梅原龍三郎先生にその話をしたら、「あなたほどの矢倉の大家が、まだ知らなかった新しい攻め方があるのに驚嘆した」と仰せられた。

 1982年、名人戦で中原名人に対する挑戦者となった。4月13、14の両日、第1局が開始された。名人戦は通常の7局でなく10局目が決定戦となった。途中、千日手が二度発生し、持将棋が1局生まれた。千日手は、互いの指し手が同一になる状況で、千日間指しても結果が変わらないので、規定により指し直しとなる。

 現実の人生もこれによく似た状況は起こり得る。千日手は指し直しの時、先手番、後手番を変える。私の経験では、後手で千日手となり先手番で指し直した時によく勝っている。先手番の時に千日手にすると指し方を変えられない状況であっても、かすかに弱気になることがある。それが指し直しの時に響くし、相手が先手となると相手の得意形で戦うことを余儀なくされる。

 この第40期名人戦で面白かったのは得意の矢倉作戦ながら、進行して行く中で決めた新手法で3勝したこと。大勝負において指し慣れた作戦でなくてもよいことを経験した。 勝者が名人位となる決勝戦は、7月30、31の両日、東京は千駄ヶ谷の将棋会館で闘われた。前日、四谷の聖イグナチオ教会の夕方のごミサに与り、将棋会館で泊まった。冷夏だったのでクーラー無しでぐっすり眠れた。

 翌30日の朝は聖イグナチオ教会の早朝7時のごミサに与り9時からの対局開始に臨んだ。第一日目の戦いは決戦に突入し、互角の形勢で終えた。複雑な局面ではなかったので、先のことはあまり読まず夕食後は早目に眠りについた。31日、朝7時の聖イグナチオ教会のごミサに与り、近くのホテルで朝食をとって将棋会館にタクシーで戻った。31日午前9時に再開された戦いは攻防の秘術を尽くして、夕方6時から7時まで休憩に入った時点では勝つ希望を持っていた。7時に戦い再開後、9時1分に私が▲3一銀と王手をかけて中原名人が負けを告げた。待望の名人位獲得の瞬間であった。

 この記念すべき勝利を、私は以後繰り返し研究してきた。そうして最近、中原名人に△4六金と飛を取る手で△5五金と銀の方を取られていると必敗であることに気が付き、わが目を疑った。神様から「いつの日か名人になれる」という示しを受けたと確信し、精進していたが、中原名人に△5五金とされていると負けだった。

 名人獲得はこういう進行で実現した。

2015/10/30

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