“日本一の富豪村”なのに現金なかった 助成のため土地売却
2019/02/13 05:30
住吉村に住んでいた大富豪たちが集まった社交場「観音林倶楽部」(住吉学園提供)
戦前、“日本一の富豪村”だった住吉村。その中心部にあった大富豪たちの社交場「観音林倶楽部」の跡地に一般財団法人「住吉学園」(神戸市東灘区住吉本町3)はある。御影石の石垣で囲まれた広大な敷地には、1938年の阪神大水害で流れてきた巨大な岩が、記念碑として当時の姿でたたずむ。
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同学園発行の冊子「わたしたちの住吉」によると、女性教育の必要性が叫ばれるようになった1918(大正7)年、地元住民らが財団法人「睦実践女学校」をつくったのが始まりとされる。経営不振に陥った43(昭和18)年、同村に譲渡され、住吉女子商業学校に改名された。その運営を担うために発足したのが同学園だった。
戦後、神戸市との合併構想が出た際、お隣の魚崎町(当時)のように「財産区」にならず、村の財産を財団法人に移管する道を選んだ。
しかし、当時から豊富な資金があったわけではなかった。膨大な山林を手にしていたが、現金はほとんどなく、地元団体への助成や事業資金のため、随時土地を売却していく状態だった。
転機は高度経済成長期の昭和30年代に訪れる。赤塚山(住吉山手)や荒神山(住吉台)などの所有地が次々と宅地開発され、61(昭和36)年には、神戸市のキャッチフレーズ「山、海へ行く」の象徴となった「渦森山」(渦森台)を同市に売却した。次々と住宅が建ち、賃貸契約が急増。こうして確固たる財政基盤を固めていった。
同村の先人たちが築き上げた資産を今の住民、地域にどのように還元しているのか。財産区と財団法人の違いは? 理事長の竹田統さん(64)を訪ねた。(村上晃宏)