挫折続きの研究者人生 原点は研修医時代に出会った患者と父親の存在

2012/10/09 17:25

 ノーベル医学生理学賞の受賞が8日決まった山中伸弥京都大教授(50)。「治らない病気を治せるようにしたい」。研究者としての歩みは挫折の連続。研修医時代に出会った患者と父親の存在を原点に、夢の再生医療の扉を開いた。

 「iPS細胞を一日も早く患者に届け、父に褒めてもらうのが今の一番の目標です」。講演でよく口にするのは、研修医1年目で亡くなった父のことだ。
 父は工学部出身で手先が器用。大阪府東大阪市でミシンの部品を作る町工場を経営していた。中学のころ父から「継がんでええ。経営に向いていない」と言われていた。父の勧めもあり、学生時代に柔道の骨折でよくかかった整形外科医を目指した。
 神戸大を卒業し念願の研修医に。しかし現実は思い描いたものとは違った。
 手術が下手で、普通なら20分で終える手術に2時間かかり、教官から「じゃまなか」と呼ばれた。患者を復帰させるというイメージのあった整形外科医だったが、脊髄損傷や重症のリウマチなど根治療法のない患者が圧倒的に多かった。そして父の死-。
 どんな天才的な医者も治せないのに、手術が下手な自分に何ができるのか。「治療法の開発には基礎研究しかない」。大阪市立大大学院への進学を決め、研究者に転身した。
 1993年に米国に留学。身近にノーベル賞受賞者がたくさんいる環境で刺激を受け、さまざまな組織の細胞になる胚性幹細胞(ES細胞)に出合った。
 しかし96年に帰国して身を置いた医学部は「同僚と議論がない、ネズミの世話に追われる日々」。マウスのES細胞の研究を続けたが、周りから「やまちゅう」と呼ばれ、研究を理解してもらえず、うつ状態になった。
 転機は98年に人のES細胞ができたこと。人に移植する再生医療への応用に期待がかかった。臨床医に戻ろうとする一歩手前で踏みとどまった。
 奈良先端科学技術大学院大で自分の研究室も持てることになり「一度、研究をやめかけたんだから、思い切り難しいことをやろう」と皮膚から万能細胞を作る挑戦を始めた。
 京大に移った後の2006年にマウスで、07年には人でiPS細胞の開発に成功したと発表、世界を驚かせた。
 やっと人の役に立てるかもしれないと思い、医療応用の見通しについて「ゴールが見えた」と答えると、難病患者から問い合わせが殺到した。目に涙を浮かべ、言葉に詰まりながら「すぐ治療が実現すると誤解されていた。まだ遠いが、一日でも早く治療に役立てたい」と決意を述べた。
 順風満帆ではなかった研究者としての歩みを「人間万事塞翁(さいおう)が馬」と例える。
 今は研究競争の最前線にいながら、知財特許などの専門家も率いる経営者的な立場。「ビジネスはだめ。人助けをしなさい」という父の遺言に基づき、患者が少ない希少疾患にiPS細胞を役立てるのが願いだ。
 口癖は「まだこの技術は完成していない。1人の患者さんの命も救っていない」。いくつかの疾患で、10年以内に臨床試験を始めるのが目標だ。
 気分転換は鴨川でのジョギング。出張にもシューズを持参し、フルマラソンも走る。「研究や人生もマラソンと同じ。勝てなくても最後まで走り抜かなければならない」

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