(9)動機 息子の死背負い人に尽くす

2015/10/28 10:57

てのひらの屋上でくつろぐ住人と石原智秋さん(中央)。気さくに話す様子は友人のよう=高砂市荒井町小松原1(撮影・後藤亮平)

 1冊の本を手渡された。茶色く変わった表紙が年月を感じさせる。

 著者は、石原智秋(ちあき)さん(68)。目の前にいる女性だ。
 高齢者7人が暮らす「グループリビングてのひら」(高砂市)は5年前、NPO法人理事長の石原さんが独力で建てた。
 鉄骨造りの3階建て。建設費は約8千万円。日本自転車振興会から6千万円の補助を受け、足りない分は借金してかき集めた。土地は、駐車場に使っていた所有地を提供した。
 そうまでして建てたかったのはなぜなのか。その問いへの答えが、手渡された本だった。
 「虹に真向ひ(まむかい)て」と題する本のページをめくる。こんな書き出しで始まっていた。
 〈-生きる-この一語の重い重い意味を噛(か)みしめています。私の一生の課題かもしれません〉
 ‡
 1991年6月9日。石原さんの次男知樹さんは帰らぬ人となった。
 17歳だった。友人が運転するバイクの後ろに乗って車と衝突し、30メートル飛ばされた。
 病院に駆けつけ、まだ温かい知樹さんを連れて帰った。付き添ってくれた友人や親類が帰り、翌日、夫と長男、長女だけになって初めて涙があふれた。
 中学生になって、変形ズボンをはくようになった知樹さん。県立高校に進んだが、休学し、復学し、中退した。建設会社で働き、家を出た。
 もがきながら生きる息子に、もがきながら寄り添った母。知樹さんが通信制高校に入り直し、大学進学を目指す軌道に乗りかけたとき、永遠の別れが訪れた。
 本には決意がつづられていた。
 〈お母さんは長生きします。これからの一生を人のために尽くしていきます。知樹がひたむきに生きていこうと思ったように〉
 ‡
 知樹さんが亡くなった翌92年、石原さんは高砂市内に、木造2階建ての民家を建てた。「オープンハウス」と名付け、子どもや障害児のボランティアの拠点として地域に開放した。
 8年後、介護保険制度が始まり、デイサービスの事業所に変わった。
 根底には、いつも突き動かされる熱のようなものがあった。
 突然終わりを告げた息子の短い人生。自らも家族も、友人も地域の人も、ベストを尽くし、人生を全うできる場所をつくりたい。
 その集大成が「自分らしく、支え合って暮らす」という理念を掲げるてのひら。夫も静かに見守ってくれた。
 老いや病と向き合う住人7人の日常は、きれいごとでは済まない。
 「それでも、生きることは何よりも尊い」。石原さんの揺るがない思いが、てのひらには詰まっている。
(宮本万里子)

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