(5)支えられて今がある
2016/01/06 10:19
田中一馬さん(左奥)と妻あつみさん(右奥)。牛舎は3人の子の遊び場だ=兵庫県香美町村岡区境(撮影・中西幸大)
ゴーッ、シャッシャッ。鋭い音が遠くからでも聞こえる。
関連ニュース
甘くきめ細やか夏大根 新温泉町・畑ケ平高原で収穫
日本城郭協会理事長 出石城と有子山城の価値解説
豊岡の魅力、SNSで発信 市が若者向けに
兵庫県美方郡香美町。川沿いの牛舎の脇で、安全靴をはいた田中一馬(かずま)さん(37)が牛の巨体を支えていた。
前脚を持ち上げ、ガスバーナーでひづめをさっとあぶる。シャッ。軟らかくなると、鎌の刃を当てて薄く削る。
ひづめを削り、形を整える。削蹄(さくてい)。いわば牛の爪切りだ。
「ひづめの厚さや角度で立ち方が変わる。バランスが悪いと肉質に影響しますからね」
少し早口の一馬さん。2002年、独力で「田中畜産」の看板を上げた。
牛舎には48頭。子牛の出荷だけでなく、削蹄の請負や肉の販売まで手掛ける。多角経営のやり手農家-。感心すると首を振って否定された。
「毎日不安だらけですよ、いまも」
‡ ‡
えさの容器をひっくり返した“いす”に座る。妻のあつみさん(28)が熱々のコーヒーを出してくれた。
わらや堆肥のにおい。くぐもるような鳴き声。「そばにいて牛を見続ける。僕の教訓なんです」。一馬さんが話し始めた。
三田市育ち。「動物が好き」で北海道の酪農学園大学へ。研修先として美方の農家を紹介され、2年間住み込み修業した。
「但馬牛の本場。ここで牛飼いになる夢をかなえたいと思って」
資金はゼロ。国や農協から約3500万円借金し、牛舎を建て、牛を買い入れた。
「新規就農者」「美方の希望」
貴重な存在となった一馬さんは各地から講演に呼ばれ、成人式であいさつした。
忙しくなり、牛舎に行く時間はなくなっていった。牛は思うように育たず、感染病で半分近く死んだ。
実力もないのに、もてはやされる。ギャップに落ち込み、1年ほどうつになった。
トンネルから抜けられない。ふと、1人の顔が浮かんだ。「師匠」の森脇薫明(しげあき)さん(58)。9年前まで修業していた牛舎に駆け込んだ。
「お前は牛を見とらん」。叱責(しっせき)された。何も言えなかった。「でも逃げんな。困ったらまた来い」。森脇さんも涙を流していた。
「名前の通り、あいつは馬なんや。とんで跳ねて一直線で」と森脇さん。「俺たちが飼っとるのは、牛だでな」。にこっと笑った。
‡ ‡
昨年11月、広島県の職員が視察に来た。「新規就農の成功ノウハウは何でしょうか」
一馬さんは返した。「ノウハウなんてありません」
泣きながら叱ってくれた師匠、現金収入になる削蹄の仕事を紹介してくれた先輩、そして、1人でも牛の世話を続けた妻…。
「支えられて支えられて。今があるんです」
そんな一馬さん。ずっと温めていた考えを寄り合いで披露した。それは、地元に“一石”を投じた。(宮本万里子)