【3】籠目の花瓶(1)とんでもない芸術作品
2020/08/31 15:30
筆者が手に入れた、籠目が美しい出石焼の花瓶の数々。小ぶりで、細工は簡素化されているが、優れた技巧がよく分かる
そば猪口(ちょこ)に徳利(とっくり)、茶碗(わん)、皿…。古い焼き物を次々と購入するようになったものの、壺(つぼ)や花瓶の類いは縁遠い存在だった。それが、平凡社の別冊太陽「明治の装飾工芸」(1990年刊)で、ある白磁の飾壺(かざりつぼ)の存在を知って以来、関心が向くようになる。
「白磁籠目花鳥貼付飾壺(はくじかごめかちょうはりつけかざりつぼ)」(高さ58・5センチ、幅32・3センチ)という。これも、出石焼(兵庫県豊岡市出石町)だった。
前回、三合徳利の原稿で書いたように、かつて私は記者として但馬に約3年赴任し、出石は取材エリアだった。しかし、この飾壺の存在は知らなかった。写真で見る限り、「ここまでやるか」と言いたくなるほど技巧を駆使した作品である。
どんな作品かといえば、まず、竹で編んだような籠目の模様で覆われた白い壺を想像していただきたい。このうち本体上部の籠目が外され、中のウグイスと梅の木の飾りが、外から見える細工になっている。お分かりいただけただろうか。
別冊太陽の記事には「驚嘆すべき技術と忍耐が介在」「日本画を立体化したような装飾の飾壺」と書かれていた。初代永澤永信の1877(明治10)年ごろの作だ。
幕末までの出石焼といえば、古伊万里(こいまり)の亜流のような生活雑器が大半だった。それが突如、とんでもない芸術作品をつくりあげたのである。
明治政府の後押しで、出石に「盈進社(えいしんしゃ)」という磁器製造会社が誕生したのは、76(明治9)年のこと。伝統工芸に改良を加えて欧米に輸出し、外貨を獲得するため、佐賀県の鍋島焼の陶工が指導者として出石にやってきた。
驚くべきは、初代永澤をはじめとする出石の陶工の高い技術力である。複雑な図案を示されるや、それまで蓄積した技であっという間に作品化したのだ。
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冒頭、紹介した「白磁籠目花鳥貼付飾壺」は、なんと個人の所蔵だった。調べてみると、明治期に作られた出石焼の超絶技巧の飾壺や花瓶は、兵庫県立陶芸美術館(丹波篠山市)に2点あり、豊岡市の出石神社に2点、出石明治館に1点、存在することが分かった。ほかに県外の美術館にも数点、所蔵されている。
「ふたを外し、赤いバラでも生けたら映えるだろうな」。生け花とは全く無縁の私も、別冊の写真で見た飾壺の見事さには心を奪われた。籠目の作品がほしいと願った。
だが、盈進社は10年ともたずに廃業してしまっている。手の込んだ芸術的作品は大量に作ることができず、当然のことながら高価になる。名品となって公的施設などに収まり、骨董(こっとう)店に出回ることなどないだろうと考えていた。
ところが、である。
(骨董愛好家、神戸新聞厚生事業団専務理事 武田良彦)