田中唯介さん(94)高砂市 抑留生活、死ぬよりつらかった
2020/06/18 15:20
田中唯介さん
■月1回の入浴は缶に「お湯1杯」
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横殴りの風が雪を吹き付け、いてつくような寒さでした。いつ、どこにたどり着き、何をされるのかも分からないのに、膝まで埋まる積雪の中を歩かされていた時でした。
突然、「バンバンバーン」と銃声が響いてね。少し前を歩いていた戦友は、雪に顔をうずめ、手足をびくびく震わせていましたが、やがて動かなくなりました。
戦争に負け、ソ連のカラガンダ(現カザフスタン中部の都市)の駅からラーゲリ(収容所)まで移動中のことです。みんな疲れ切っていました。
戦友は隊列を離れ、逃げようとしたんです。ソ連兵にとっては逃げたらこうなるぞ、と見せしめだったんでしょう。そこまでされないといけないのかと悔しかったですよ。でも、どうしようもありませんでした。
国の調査によると、第2次大戦後、シベリアやモンゴルに強制抑留された日本人は約57万5千人。森林伐採などの重労働や飢え、極寒のため、約5万5千人が死亡したとされる。
満州(現中国東北部)で終戦を迎え、昭和20(1945)年9月に、国境に近いブラゴベシチェンスクから列車に乗せられました。ソ連兵は「トーキョーダモイ(東京へ帰す)」と言っていましたが、数日後、日本海に着いたと思ったら、バイカル湖でした。だまされました。
カラガンダでは、れんがの材料になる粘土を掘らされました。朝から晩まで8時間労働です。食事はパンが一切れとキャベツが数枚入ったスープ。1日2食しかない日もありました。
おなかがすき過ぎて、気分が悪うて悪うて…。力仕事なのに力が入らない。なのに、ソ連兵には手を抜いていると思われて、蹴られました。監視しているソ連兵の銃を奪おうと躍り掛かったやつもいましたが、撃ち殺されました。
入浴は直径20センチほどの缶にすくったお湯1杯で、全身を洗わなくてはなりません。それも月に1回だけ。けだものと同じでした。
氷点下40度にもなる寒さと飢えで、多くの戦友が死にました。朝起きてこず、そのまま亡くなっていたこともあります。遺体は荷車で7、8人くらい一緒に運びます。服を着せるのは禁じられ、かちかちに凍った裸の遺体を埋めました。
こんな生活がいつまで続くのか。生きることが、死ぬよりつらい毎日でした。
抑留3年目の冬、凍傷で指3本の先を切断しました。真夜中、坑木を積んだ貨車の上に乗り、バールで下に降ろしていた時に転落したんです。目覚めたら手に包帯が巻かれていました。
その時に助けてくれた戦友は帰国途中、ナホトカでの土木作業中に土砂崩れに遭い、逃げ遅れました。
土の中から出ていた右手を、思い切り引っ張りましたが、私の肩が抜けてしまいました。皆で掘り出すと、顔は腫れ上がって、口には泥が詰まり、人相が変わっていました。もうすぐ帰国だったのに…。
地獄でした。
もう誰も、自分と同じ目に遭わせたくありません。(聞き手・斉藤正志)
◆
終戦から、間もなく75年となる。戦争では、何が起きたのか。戦争は、何をもたらしたのか。当時を知る人たちの声に、改めて耳を澄ましたい。
【たなか・ゆいすけ】1925(大正14)年、加古郡阿閇(あえ)村(現播磨町)生まれ。戦後4年間シベリアに抑留され、帰国後に高砂市に楽器店を開いた。現在も当時の体験をアコーディオン演奏に乗せて語っている。