(6)絶対死なんと帰ってこい

2013/05/27 16:53

シベリアの地図を見ながら記憶をたどる橋本信雄さん=篠山市遠方(おちかた)

 戦後、シベリアに抑留された篠山市の細見竹雄さん(91)と橋本信雄さん(87)=旧姓・細見=兄弟の物語は続く。今回から弟の信雄さんの語りを届けたい。信雄さんが徴兵検査を受けたのは、1944(昭和19)年のことだ。当時19歳だった。 関連ニュース 過酷さ記した軍医の書簡 未解明の北朝鮮抑留に光 戦中戦後のはがき210点 新宿の平和資料館 シベリア抑留で慰霊祭、東京 「悲劇、後世に伝える」


 「よく赤紙って言うけど、兵隊の経験があったりなんかした後、家に戻ってる人を呼び出して、戦争に連れて行くのが赤紙です。僕らは、もう兵隊が足らんもんやから、検査を強制的に受けさせて、そのまま徴兵。義務ですわ」
 「兄貴(竹雄さん)んときは、受検の基準が20歳からやったけど、僕らのときは19歳に下がってた。神戸の体育館みたいなところで受けました。甲種合格でしたよ。帰りにね、左の手のひらにマル甲の判をついてもらって。直径3センチくらいで丸に甲と入っとった。『帰って、村長さんに見せえ』とね。それが誉れやったんやね。私もね、ガッツポーズするくらいうれしかった」
 「教育つうのは恐ろしいと思うんやけど、学校で『天皇陛下のために』って教わってきたからね。『戦争に征(い)きたい』っちゅうより『征かないかん』っていう義務感に圧倒されとったね。母親だけはね、出征するときにかばんの裾をつかんで『絶対死なんと帰ってこいよ』って言うてくれた。世間でも『天皇陛下のために死んでこい』なんて母親は、おそらくおらんかったでしょうけど」

 45年春、信雄さんは陸軍の通信兵として博多から朝鮮半島に渡った。そして中国・遼寧(りょうねい)省の鞍山(あんざん)に着いた。

 「兄貴と一緒で、満州(中国東北部)を占領していた関東軍の一員でした。第11野戦航空修理廠(しょう)に配属されたけど、南方と違って戦闘もないし、内地のような空襲もなく、安全地帯でしたよ。食料も十分にあったしね。毎朝、山裾を4キロほど走らされました。初年兵教育いうて行進したり、ほふく前進やったり、入って3カ月ほどはそればかり。通信関係の訓練なんてなかったです」
 「そのまま、終戦を迎えました。一番下の2等兵から1等兵になった直後やったかな。中隊長が『わしはおまえらに命令することもないし、資格もなくなった』って。みんなワンワン泣きましたわ。戦況が悪いのは分かっとったけど、負けるなんて思っとらへんだ。1週間か2週間ぐらいして、ソ連軍が戦車でやってきてね。戦わないまま、刀やら銃やら取り上げられてしもうた」
(小川 晶)

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