(3)動けんなってもうあかん
2013/05/23 16:28
ロシア・タイシェトには日本人捕虜が建てたとされる施設が残る(厚生労働省外事室提供)
「わしらが暮らしとった木造の建物には、30人か、いやもっとおったんかなあ。廊下を挟んで2段ベッドがずらーっと並んどってな。頭を窓の方に向けてみんな寝よったな。そっから作業に出とったんやけど、動けんようになると、敷地内の別の建物に集められた。みんな、そこで死ぬんや。『死の部屋』と呼ばれとったな」
シベリアに抑留された篠山市の細見竹雄さん(91)は、亡くなった仲間を次々見送った。しかし、抑留から3~4カ月が過ぎた1946(昭和21)年2月ごろ、竹雄さんも体に変調を来した。
「食べてへんから栄養失調で血便が出て、動けんようになったんや。周りも、そうして死んでいくやつが多かったからな。『もうお前も3日か4日ぐらいしか、生きられへんよ』と言われて、死の部屋に移されてな」
「死の部屋におる仲間は、みんな『わしはもうあかん。死んだ方が楽でええ』って覚悟を決めとったな。わしもそうやったけど、血便が出る前になったら、ものすごう腹が痛いんや。『死ぬんはかまわんけど、この痛みだけは何とかならんもんか』ってずっと考えとってな。『楽に死にたい、楽に死にたい』ってな」
今年4月に解散した独立行政法人「平和祈念事業特別基金」が発行した「戦後強制抑留史」によると、シベリアの各収容所には医務室や衛生部が設けられていた。しかし、衛生環境は「これ以上考えられないような最低最悪のものであった」と記されている。
「腹はかなわんぐらい痛かったけど、薬も何もなくてな。そんときに思い出したんが、子どもんときにおばあさんが言うてた『腹痛や下痢んときは炭を食ったら治る』という言葉やった。それで、たき火をしとるところへほうて行って、消し炭を拾ってきてな。軟らかいもんやけど、それだけやったらガスガスで喉を通らへんから、水と一緒に飲むんや」
「水は、飯ごうに雪を入れてきて枕にして、自分の熱で溶かすんや。ほいたら、じわーっと溶けてきて水ができよったな。それを飲んで炭を食べたんや。夢うつつで意識がもうろうとしてたけど、そのうち血便が粘液便になって痛みが止まったんやな。おばあさんに教えられたこと思い出さんかったら、そのまま死んどったやろうな」
(小川 晶)