(8)もう人間やない動物やね

2013/05/30 16:30

シベリア抑留で亡くなった日本人捕虜の墓碑=ウズベキスタン・アングレン(舞鶴引揚記念館提供)

 旧ソ連軍の捕虜になり、ウズベキスタンのアングレンに送られた篠山市の橋本信雄さん(87)は、道路建設作業に従事した。作業は1946(昭和21)年の年明けから始まった。 関連ニュース 兵庫出身コンビ投打けん引 智弁春夏連覇へ好発進 個性ある商品開発を デザイナー育成へプロが講義 「丹波竜」発見10年 発見者2人に思い聞く


 「みんな栄養失調で倒れてった。それに水が悪うてね。炭鉱の街やから地下水に有害物が入っとって、80度以上に温めなんだら下痢してしまう。ぬくめるのを待てばええんやけど、兵隊はたくさんおるし待ち切れんと飲んでまうんや。それで体がいかれてまうんやな」
 「マラリアもはやった。助かるようなもんやなかったな。40度か41度の熱が出ますよ。僕もかかって、起き上がれへんようになった。お湯を飲むんが精いっぱいで、おしっこも寝たまま。腹を押さえたら背骨に届いたわ。体重も30キロ台に落ちとったと思う。羊の肉を少しずつしゃぶって、元気を取り戻したんを覚えとるわ」

 46年の秋、作業は道路の敷設から炭鉱での採掘に変わった。

 「アングレンは、冬は零下30度以下になって、夏は40度ぐらいまで上がるところやったですよ。炭鉱の中は年中22~23度で、気温的には最高やったけど、ノルマがあるからね。ノルマいうても、1日8時間で稼ぐ作業能率をいうんやね。9時間でやり終えても達成にはならへん。そうするとパンが薄なんねん。かっちりしたもんやったで」

 旧ソ連政府は46年11月、内務人民委員部令を出して、捕虜に対する食料供給基準を改定した。それによると、パンの1日当たりの配給量は、ノルマの達成率125%超=450グラム▽101%超=350グラム▽80%以上=300グラム▽80%未満=250グラム-と細かく決められている。一方で、旧ソ連兵による搾取が横行し、基準通りの食料が日本人捕虜に行きわたっていなかったとの証言も多い。

 「隣の寝台におったフジモトいう兵隊が亡くなったんが、炭鉱の作業に入ったころやった。長野出身で、年は僕より三つ、四つ上で。お国の自慢話もしてもろうたけど、やっぱり食べもんの話が多かったね。『ぼたもちを口いっぱいほうばって食べたい』とかな。とにかく食べもんなんや。もう人間やない、動物やね。カメ、ネズミ、ヘビ、モグラ、みんな焼いて食べましたわ」
 「フジモトも栄養不良で亡くなった。前の晩に話をして、朝起きてけえへんから揺すったら死んどった。衰弱死ちゅうんか、心不全やったんやろうな。やせこけて、冷たくなっとった」
(小川 晶)

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