(11)腹いっぱい飯が食える

2013/06/03 17:14

 1949(昭和24)年8月、ロシア・タイシェトに連行された篠山市の細見竹雄さん(91)に、待ちわびた「ダモイ(帰国)」が巡ってきた。抑留から丸4年が近づいていた。 関連ニュース 兵庫出身コンビ投打けん引 智弁春夏連覇へ好発進 個性ある商品開発を デザイナー育成へプロが講義 「丹波竜」発見10年 発見者2人に思い聞く


 「帰りの貨車に乗っても船に乗っても、まだ信じてへんかった。ソ連兵は何かにつけて『ダモイ』言うてたさかい、どっかに『これはうそや』いうんがあった。ナホトカから京都の舞鶴に着いても、まだ日本に帰った気がせえへんかった」
 「草山村(現篠山市)の実家に戻ってきたときかな、家の前の山の木がピカピカ光っとって、風で揺れとるちゅうのかな。それ見て、初めて内地に帰ってきた思うたよ。でもな、同じ光景を、シベリアにおったときに何度も夢で見とったんや。『木の葉がキラキラ光って揺れとる。ああ草山や、内地へ帰っとんのや』。そう思って起きたら、シベリアや。せやさかい、夢やないやろうかとも思うてな。1年ぐらいは帰った気分がせえへんかった」
 「人間いうもんは、4年間も絞られたら、あないなるんかいなと思うような感じでな。半年や1年ぐらいやったら、『しばらくやったなあ』って笑い合えるんやろうけど。完全に環境が違うて、とことんまで体も追い詰められて、穏やかな物言いもできへん。せやから近所の人にも避けられてな。ずっと家ですくんどったな」

 竹雄さんの4歳下の弟、橋本信雄さん(87)(旧姓・細見)は、同じ年の12月、ウズベキスタン・アングレンでの抑留生活を終え、帰国した。

 「その年の10月ごろやったやろうな。ソ連のえらいさんが3人ぐらい収容所に来て、名簿を読むんですよ。『ハラショーラボータ、トウキョウダモイ』(良い仕事をした。日本へ帰す)って言うて、名前が呼ばれた。うれしいっちゅうか、仲間はほとんど帰っとったし、『あーやっときたか』いう感じやね。まず『帰ったら米の飯が食べられる』って思った。母親や兄弟が元気でやってるのかもあったけど、帰ったら腹いっぱい飯が食えると、それだけ」
 「ナホトカからの船の中で食べたんが、白いご飯にみそ汁、魚の焼いたやつ、本当にうまかった。けどなわしらこんだけ苦労してきたのに、日本ではこんなもんを食べとんのかっていう心境もありまんねん。4年間の経験が骨身に染みてるっていうのか、俗に言う根性わるっちゅうやつやな」
 「それでも、海岸線の松の緑が見えてきたときは感慨無量というか、あぜんとしたというか。零下20度か30度で、一面雪に覆われとったとこから、二晩寝たらもう、松の緑やからね。日本はええとこやったんやって思った」
(小川 晶)

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