(13)戦地も内地も苦しかった

2013/06/05 17:34

「家内も抑留の話を聞くのは嫌や言います」と話す橋本信雄さん=篠山市遠方

 篠山市の細見竹雄さん(91)は戦後、シベリア抑留の体験を「忘れて暮らそう」としてきた。弟の橋本信雄さん(87)も同じだが、一方で「尊い体験だった」との思いもあると話す。どういう意味なのだろう。 関連ニュース 過酷さ記した軍医の書簡 未解明の北朝鮮抑留に光 戦中戦後のはがき210点 新宿の平和資料館 シベリア抑留で慰霊祭、東京 「悲劇、後世に伝える」


 「誰にもできない苦労をしてきた。今の生活がいかに幸せなんかという、その神髄というか、そういう体験をしたもんじゃないと分からんことが、おそらくあると思うんや。その意味でシベリアでのことは、人生として尊い体験やったと思うんやな」
 「考えてみたら、だーれも喜ばんことで、シベリアで4年間苦労してきただけ。悪い方ばっかり考えていたら、自分を痛めるだけやもん。自分がたまらんわ。だからそれをプラス思考に持っていくためのもんで、クエスチョンマーク付きの『尊い』やな」
 「尊いと思わざるをえんというのか、そう思わな自分としてはやっていけんという感じやな。やけっぱちのようになっとるんやな。人に伝える言葉では適切ではないかもしれんね。向こうで亡くなったものとしては、そりゃあとんでもないってことになるしな」

 信雄さんはかつて、地元の集まりなどで抑留体験について話したことがある。だが80歳を過ぎたころから、呼ばれることもなくなったという。

 「こんな話をしたって、体験をしとらんかったら分からへんで。しんどかったやろう、えらかったやろうで済んでしまう。体験した人やなかったら話が通じんと思う。ただ『戦争の体験をいっぺん聞かせてくれ』いうような人がなくなるちゅうのは、それはそれで問題やと思うね」
 「でもね、自慢するようなもんやないし、同じ世代から『そんな話、聞くのが嫌や』って言われることもあるんですよ。わしだけやないんですよね、苦しかったんは。戦争行かなかったもんもそう。国防婦人会とか入らされて、食糧がなくて、山の新芽を採ってきて食べたって」
 「うちの家内もね、抑留の話を聞くのは嫌や言いますよ。わしが橋本家に養子に入ったんも、ここの男兄弟が戦争で3人とも死んで、跡取りがなかったからでね。戦争行ったもんも、内地におったもんも、みんなが苦しんで悲しんで、できれば忘れたくて。そんな世の中やったんですよね」

 厚生労働省は、旧ソ連軍によって約57万5千人の日本人捕虜が抑留されたと推計する。収容施設は、東はカムチャツカから西はウクライナまで1200~1300カ所に上り、約5万5千人が死亡したとされる。1991年の旧ソ連崩壊後、死亡者名簿など一部資料がロシア側から引き渡されているが、全容解明には至っていない。
(小川 晶)
=おわり=

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