(3)「死が怖いんか」と怒られ

2013/08/15 16:17

宮崎亘さんが訓練を積んだ艦上攻撃機。鶉野飛行場で1944年11月に撮影されたという(上谷昭夫さん提供)

 宮﨑亘(わたる)さん(88)=神戸市長田区=が、搭乗員の基礎を学ぶ飛行予科練習生(予科練)となったのは、1943(昭和18)年4月のことだった。約1年後、飛行術練習生の教程へと進み、筑波(茨城県)、築城(福岡県)で操縦訓練を積んだ。そして44年7月、姫路海軍航空隊に移った。 関連ニュース 加美中ソフト部、県総体初優勝 近畿大会へ 明石の抽象画家が個展 銅版画など19点展示 たばこと健康考えるフォーラム 神戸でWHO開催


 「姫路時代に訓練した加西の鶉野(うずらの)飛行場は、艦上攻撃機の操縦員を養成するところやった。1人乗りの戦闘機と違うて、操縦、偵察、電信の3人が乗り込み、主に魚雷で艦隊に攻撃をかける。よくいう『雷撃』っていうやつですな。敵の戦闘機とか、対空砲火のど真ん中に突っ込んでいくわけやから、死ぬ確率が高い飛行機です」
 「わしは志望して艦上攻撃機の操縦になったわけやないんです。ほんまは操縦やなくて、偵察をやりたかった。見張りだけやなくて、気流や高度を計算して、きちっと搭乗機を目的地に向かわせる。大事な仕事ですよ。やけど、『戦闘機志望です』って言わへんかったら怒られて。戦闘機いうたら一番激しいし、『お前、死ぬのが怖いんか』ってことやね」
 「役回りは、練習生の段階で勉強や体力の適正を見て決められるんです。操縦か偵察か。操縦やったら戦闘機、艦上攻撃機、艦上爆撃機、水上機などと機種までね。あと、どの程度参考にしたんか知らんけど、手相。予科練の最初のときに全員、易者に見てもらうんです。何も言うてくれへんから、結果は分からんかったけどね」

 鶉野飛行場での訓練は、離着陸や飛行、魚雷の発射と多岐にわたった。7人のグループに教官が付き、順番に操縦かんを握った。

 「飛行訓練は、あらかじめ決まったルートを、計器を見ながら飛ぶ。大事なのは機体を水平に保つことなんです。そうせんと魚雷を発射しても、ちゃんと敵艦に向かわない。装着しとる魚雷は一つだけやし、失敗したら終わりやから、とにかくそればっかりでした」
 「発射の模擬訓練は、明石海峡の漁船が標的でした。鶉野から10分ぐらいで、近かったしね。編隊を組んでいって、塩屋(神戸市垂水区)の方からと淡路島の方からと二手に分かれる。あんまり低空だと向こうがびっくりするし、船を壊してもいかんのやけど、十数メートルまで高度を下げたこともあった。もちろん実際に発射はしないんやけど。両方から一気に近づいて、船の上ですれ違うんです。漁師さんたちが、手を振ってくれてんのが見えましたわ」
(小川 晶)

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