(14)敗戦翌日、特攻隊員の死
2013/08/26 16:03
海軍の特攻艇「震洋」の元隊員南利夫さんの死亡を伝える書類。敗戦後の「八月拾六日」「戦死」と書かれている=加古川市
1945(昭和20)年7月末、徳島飛行場はアメリカ軍戦闘機の攻撃で破壊された。徳島海軍航空隊は拠点を近くの市場飛行場に移す。宮﨑亘(わたる)さん(88)=神戸市長田区=は本土決戦に向けて訓練を続けたが、再出撃の命令を受けることなく、8月15日を迎えた。
関連ニュース
箱の中に小宇宙 コーネル愛好家ら、神戸で企画展
ほんのり甘い炭酸煎餅サブレ 福祉事業所が手作り
誕生!名水とハチミツの“コラボ”ビール 神戸
「15日は『重大発表がある』って言われ、指揮所の前に集合しました。玉音放送は、雑音が入っとったけど『堪え難きを堪え』が聞き取れたから、日本が負けたいうのは何となく分かった。『捕虜になるんやろうか』とか考えたけど、実感はなかったですね。『仲間があんなに死んだのに、何やったんや』という気持ちもあった。命をかけて国に尽くしたんやから」
予科練平和記念館(茨城県)によると、沖縄戦の航空特攻で、陸海軍の3千人以上が命を落としたとされる。海軍の特攻「菊水作戦」を指揮した宇垣纏(まとめ)中将は、15日夕、大分基地から独断で、22人の部下とともに出撃した。夜間偵察機の搭乗員として基地にいた喜田又男さん(87)=加西市=は、その姿を見て「戦争は終わったいうとんのに、まだ特攻に行かなあかんのか、『わしに続け』いうことか、と思った」と話す。
宮﨑さんにも「敗戦後の特攻」をめぐる記憶がある。
「玉音放送の次の日ぐらいに、『高知沖でアメリカ軍艦隊が艦砲射撃』いう一報が入ってきた。具体的な命令はなかったけど、いつでも特攻に出られる態勢をとりました。ほんまに負けたんか、東京に確認に行った上官もおるぐらい混乱しとったし、だから出撃準備も抵抗はなかった。偉い人やったら『そんなわけない』って分かったと思うけど、下士官の悲しさやね。1日ぐらいして、『間違いや』となった」
8月16日夜、高知県の住吉海岸では、海軍のモーターボート型特攻兵器「震洋」が爆発する事故が起きている。「敵艦隊接近」の誤報を信じた隊員が出撃準備中、ガソリンに引火。爆薬を積んだ23隻が次々に誘爆し、111人もの隊員が死亡した。現地で遺体の確認などに当たった姫路市出身の元海軍航空兵、大橋英幸さん(85)は「断続的なごう音と火柱が艦砲射撃と取り違えられ、各隊に伝達された記録がある」と語る。
この事故で、4歳上の兄、南利夫さん=当時(23)=を亡くした大西キクヱさん(87)=加古川市=は言う。「みんなと一緒に亡くなったから、『南の島のジャングルで、独りぼっちで餓死するよりは』って思うようにしてる。兄はね、終戦を知らなかったん違うかな。せやから出撃しようとしたんよね、きっと」(小川 晶)