(1)命捨てても構わない 日米開戦「いよいよ来たか」

2013/12/08 11:25

日向に乗り込んでいた山中喜平治さん=丹波市青垣町遠阪(撮影・斎藤雅志)

 今年秋、台風30号で甚大な被害が出たフィリピン・レイテ島をめぐって、日米海軍が激しい戦いを繰り広げたのは、1944(昭和19)年10月のことだ。「レイテ沖海戦」と呼ばれ、戦場となった海域の広さ、両軍の軍艦の多さなどから、史上最大規模の海戦とされる。太平洋戦争の開戦から3年、敗色濃厚だった日本海軍の連合艦隊は持てる戦力をすべてつぎ込み、戦いに臨んだ。このとき、米軍の航空機を引きつけるため囮(おとり)となった機動艦隊の中に、航空戦艦「日向(ひゅうが)」の姿があった。シリーズ「戦争と人間」第3部は、日向で機銃の射手を務めた丹波市青垣町遠阪(とおざか)の山中喜平治(きへいじ)さん(91)の記憶をたどる。(森 信弘) 関連ニュース 自衛隊、初の米艦防護 北朝鮮にらみ連携強化 初の米艦防護へ、海自艦合流 安保法新任務、施行から1年 航空自衛隊が共同訓練の写真公開 米空母艦載機と飛行


 山中さんの左目には義眼が光る。今は、右目も視力を失っている。太ももや腕には爆弾の破片が残り、触ると固い感触がある。

 「昨日のことは忘れても、昔のことは割合よう覚えとります。その日は勤労奉仕で、5人くらいで出征兵士の畑を耕す手伝いに行っとりました。この辺りはラジオもあまりなかったので、役場の人か、それを聞いた人が、日米開戦を触れて回ってたんです。2、3人ずつで自転車に乗って回っとりましたな。あぜの方から『戦争が始まったぞ』と教えられました」

 その日、41年12月8日、日本軍が真珠湾攻撃を決行し、太平洋戦争が始まった。すでに、日中戦争は泥沼化していた。当時、山中さんは尋常高等小学校を出て、軍事教練などを受ける青年学校に通っていた。男子は20歳になれば、兵役に就く義務があった。19歳だった山中さんも翌年に徴兵検査を控えていた。

 「日米開戦を聞いたときは、いよいよ来たかと思いました。アメリカとの交渉はうまくいかないと聞いとりましたし、支那事変(日中戦争)で大勢が出征し、私の村でも戦死者がだいぶ出とりました。戦争をして負けるとは思わなんだから、『よし、行ったらやるぞ』という気持ちばっかりで、胸が躍ったという感じでしたな」

 山中さんの家は、遠阪村の山深い集落で農家をしていた。自前の田んぼはわずかで、収穫したコメの多くを地主に納めていた。

 「私は8人きょうだいの長男でした。本当はもう1人おりましたが、生まれてすぐ亡くなりました。私のほかに3番目と7、8番目が男で、3番目は小学校を出てすぐ陸軍の航空兵に志願しとりました。両親は私が軍隊に入るときも『しっかりやってこい』という感じでした。心の内では泣いとったかもしれんけど、戦争が終わるまで、涙ひとつこぼしませんでした」
 「若いもんは皆、命をほかしても構わないと思ってました。教育がそうやったからでっしゃろな。開戦したときはだいぶ軍国主義が強くなっとりましたで、みんなすでに、アメリカと戦争するんじゃという気分になっとりました」
 「氷上郡(現丹波市)でも、特高(特別高等警察)が目を光らせとるのはよう分かっとりました。知り合いが引っ張られたこともあります。でも、あのころは国のために一生懸命になっとりましたで、窮屈とかは思いやしませんでしたな」

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