(1)餓死寸前 銃構える力なく
2014/08/13 14:05
「墓島」と呼ばれたブーゲンビル島での戦闘を振り返る遠藤毅さん。右耳のそばに戦時中の傷が残る=西宮市(撮影・三浦拓也)
パプアニューギニアのブーゲンビル島は、日本から約5千キロ離れた赤道近くに浮かぶ。太平洋戦争の激戦地の一つで、かつてはボーゲンビル島と表記された。戦時中、日本軍の兵士は飢餓の島、ガダルカナル島を「餓島(がとう)」と呼んだように、ボーゲンビル島に「墓島(ぼとう)」の字を当てた。厚生労働省によると、この島で命を落とした日本兵は約3万3600人。文字通りの「墓の島」であった。シリーズ「戦争と人間」第5部は、陸軍少尉として墓島で戦った西宮市の遠藤毅さん(93)の体験を紹介する。(小川 晶)
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「悲惨いうのは、正常があっての言葉。悲惨が普通の状態やったら、どう表現したらええんやろうかな」
墓島のジャングルで日本軍が対峙(たいじ)したのは、米豪の連合軍だった。1944(昭和19)年夏、遠藤さんは歩兵小隊を率いて戦闘の最前線にいた。
「後方から僕の陣地に補充されてくる中には、栄養失調で体が膨れた状態の兵隊もいた。栄養失調になると、体全体が腫れるいうか、ちょっと水ぶくれみたいになる。それから何日かたつと、空気が抜けたようにみるみる痩せていった」
「陣地いうたかて、ジャングルに何があるわけでもない。1人ずつ、スコップで肩ぐらいの高さまで縦に壕(ごう)を掘って、ノコギリで切り倒した木を上にかぶせる。そこに入るわけ。出た土は壕の前に積んで、弾よけにする。ただ、みんなフラフラやから深く掘れん。胸ぐらいまで掘れたらいい方やった」
連合軍の拠点は、島の西岸のタロキナにあった。一方、遠藤さんが所属する歩兵第81連隊は反対側のヌマヌマに拠点を置いた。その間にある標高約1200メートルの峠で、両軍の一進一退の攻防が続く。
「膨れた体で合流した兵隊は、陣地におるうちに痩せてくる。実際、墓島で死んだ兵隊の多くは餓死やった。朝起きたらあっちでもこっちでも死んどる、そんな状態。しかし後方だったら、そのまま息絶えてしまうような状態の兵隊も、最前線で敵が来たら弾を撃つ。殺し合いだから、感情が高ぶっとるわけや。みんな『命が惜しい』いう本能で撃っとるようなものやった」
「僕は『敵を5メートルまで引き付けて撃て』と命令した。5メートルいうたら、目と鼻の距離や。敵が先に気付いて撃たれる可能性も高い。でもみんな、もう銃を持ち上げる力もなくなっていたから、それ以上、遠くを狙っても当たらへんのや」
「墓島」と呼ばれたブーゲンビル島での戦闘を振り返る遠藤毅さん。右耳のそばに戦時中の傷が残る=西宮市(撮影・三浦拓也)