(11)援護なく 次々に部隊全滅

2014/08/26 16:00

1943年11月、日本軍が上陸したタロキナの海岸。遠藤さんも1小隊を率いて加わった=2009年10月、ブーゲンビル島(日本遺族会提供)

 中国大陸にわたり、見習士官として歩兵第54連隊の小隊長になった遠藤毅さん(93)=西宮市=は、南方行きを告げられ、サイパン島に移る。さらに1943(昭和18)年11月、ブーゲンビル島(墓島(ぼとう))へ上陸するよう命令が出た。 関連ニュース 「尼崎城」城主になれる?! 市が一口の寄付制度 今週末はホタル日和 兵庫県内、例年並み JR宝塚線廃線跡を紹介 ハイキングガイド発売


 「島西岸のタロキナに米軍が上陸して飛行場を造ろうとしとるから、そこを襲えいうわけやな。こっちは小銃と軽機関銃が主力。無謀か、妥当かなんて分からへん。考えもせん。見習士官いうても、正規の将校のお供いうわけやない。軍刀も持つし、50~60人の1小隊の全責任を負う」

 旧防衛庁がまとめた「戦史叢書(そうしょ)」などによると、豪州の委任統治領だった墓島に、最初に日本軍が上陸したのは42年の春のことだ。翌43年2月、近くのガダルカナル島から日本軍が撤退し、墓島は南太平洋戦線の最前線となる。11月1日、米軍主力の米豪連合軍がタロキナに上陸。これに応じて、遠藤さんを含む約880人の日本兵が新たに上陸した。11月7日の未明だったとされる。

 「駆逐艦で近海まで行って、午前0時に上陸用の折り畳み舟艇に移った。普通なら2~3キロで着く地点で降ろすんやけど、いくら進んでも島が見えへん。天明(夜明け)のころにようやく着いた。予定ではあるはずやった艦砲射撃や戦闘機といった海軍の支援が全くなくて、敵の真正面に上陸した部隊は全滅した」
 「僕らは、200~300メートル離れた地点に着いたから、反撃は受けんかった。砂浜は5メートルぐらいしかない。そのすぐ先はジャングルや。潜んで様子をうかがっとったら、パチパチパチッて音がした。ジャングルやと、弾の音が吸い込まれるように聞こえるんやな。中国大陸と音の届き方が全然違うから、どこで銃撃戦が起こっとるのか全く分からんかった」

 遠藤さんは、二つの分隊を率いて砂浜から敵陣地を目指すよう命令を受けた。

 「砂浜べりの木の間をぬうように進んどったら、ちょうど途切れた地点で、ダダダダーッて一斉射撃を受けた。待ち伏せやな。ジャングルの方から弾が赤い帯になって突き刺さってくる。曳光弾(えいこうだん)いうて、軌跡が光って見えるようになっとる弾やった」
 「一瞬で、目の前の十数人の兵が倒れた。伏せながら『下がれーっ』て連呼したわ。擲弾筒(てきだんとう)を1発撃ち込んだら、敵の攻撃がおさまった。ふっと周りを見たら、生き残っとるのは僕と分隊長と、もう一人の兵隊だけやった。その兵隊に声を掛けたけど、反応しない。伏せたまま、ブルブル震えて動かれへんかった」(小川 晶)

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