(13)病み上がりの30人率いて
2014/08/29 16:31
太平洋戦争中、ブーゲンビル島では、川の周辺に行き倒れの日本兵の遺体が折り重なっていたという=2009年10月(日本遺族会提供)
1944(昭和19)年6月ごろ、ブーゲンビル島(墓島(ぼとう))の南端、エレベンタの病院で療養していた元陸軍少尉の遠藤毅さん(93)=西宮市=は、所属する歩兵第54連隊の拠点ヌマヌマへ向かうよう命じられ、病み上がりの約30人を率いて出発した。
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「一緒に上陸した第6中隊の生き残りや、ヌマヌマに拠点を置くほかの部隊の人間もまとめて移動した。足の悪いのもおれば、マラリアが治ってないのもおったけど、そんなんおかまいなしや。海岸沿いは飛行機で攻撃されるから、ジャングルを進んだ」
「流れが急な川がいくつもあって。普通なら腰の高さぐらいの水位まで耐えられるはずが、弱っとるから膝下でないと歩かれへん。川の手前で『もう、ここで放っといて』いう兵隊も出てきた。行軍をあきらめた兵隊は、道端でへたり込んだりせん。いつの間にか、消えるようにいなくなっとる。近くを捜しても見つからん。目立たんようにジャングルの中に入っていって、そこで最期を迎えたんやと思う」
70年前の記憶をたどりながら遠藤さんは、予備士官学校でたたき込まれた「率先垂範」の言葉を持ち出した。
「将校が将校であるためには部下を掌握せんといかん。いくら軍隊やいうても、えらぶっとったら、命を懸ける戦場で誰も付いてきてくれへんからな。部下は上官の裸の姿をよう見とる」
「中国大陸から南方に向かう途中の行軍で、軽機関銃手が日射病で倒れたことがあった。彼の代わりに、僕は9キロぐらいある機関銃を担いで歩いた。休憩場所に着くと、兵隊はバタバタ倒れるように休むけど、将校は疲れとっても立ったまま。先頭に立って規範を示すいうけど、要は威厳を保つためやな」
「将校の責任いうんは中国であっても墓島であっても、変わらん。でも将校自身、体力がないとなると、責任を果たせないいうんか、発揮できない。墓島では僕も背中のけがが治ったばかりで、弱った人間を担いでいくなんてできへんかった。せいぜい口で叱咤(しった)激励するだけや。脱落していく兵隊をどうすることもできへんかった」
ヌマヌマにたどり着いたとき、約30人いた集団は20人ほどに減っていた。遠藤さんは歩兵第81連隊への転属を命じられ、ジャングルでの戦闘に身を置いた。(小川 晶)