(7)旧ソ連軍侵攻 戦慄走る
2015/02/21 10:01
高橋村の開拓団の悲劇を伝える紙芝居より、団員の出征場面(編集・絵 峠尚代さん)
浜江省蘭西県北安村に入植した高橋村(豊岡市但東町)の開拓団では、1945(昭和20)年8月までに貴重な働き手の若い男が次々召集された。開拓団の石坪馨(かおる)さん(86)の証言や「国策に散った開拓団の夢」(但東町教育委員会発行)の記述によると、その数は二十数人。40代で召集された人もいた。石坪さんが振り返る。
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「開拓団に行けば、兵隊に行かんでもいい。きばって食料さえ作ってくれたらいい、ということだったんです。当然、話が違うと思いました」
そして8月9日未明、旧ソ連軍が日ソ中立条約を破って圧倒的な兵力で旧満州に侵攻した。高橋村の開拓団に戦慄(せんりつ)が走る。
「攻めてきたから、とにかく警戒せよと言われて、開拓団本部の周囲に塹壕(ざんごう)を掘りかけたんです。だけど雨が降って降って、ぬかるんでどないも進みません。もちろんソ連軍が来たら、ひとたまりもないと思っとりました。それでも、どないかして戦わんなんという気になっとりました」
さらに3日後の8月12日、数少ない男手の中から20人が、追加で兵隊に取られることになった。開拓団本部の前に出征する男たちが整列した。
「出征兵士を送り出すんですから、内地と一緒で大人も子どもも日の丸の旗を持ってね。『バンザイ、バンザイ』と言って見送ったんです。団長は、兵隊に行く人に不安げな話はできんから『心配せずに行ってきてくれ』と言ってましたが、本当は一番心配しとりますわねえ。私は、日本もいよいよ最後になっちまったな、と思いました」
当時12歳だった山下幸雄さん(81)は、開拓団の若い男が次々と出征していったことが、後の集団自決に影響したと話す。
「うちのおやじは45歳で、召集はされませんでした。でも団員の徴兵がなければ、あんな悲惨な目に遭わずに済んだと思いますね。暴徒が鎌を振り回してきたって、こっちにも追っ払う力がありますから。とにかく年寄りと女、子どもばかりじゃ、どうもこうもならんでしたね。逃げるしかないし、最後はもう死ぬしかない」
(森 信弘、若林幹夫)