(8)殺気だつ大人、最期を覚悟
2015/02/22 12:00
高橋村の開拓団の悲劇を伝える紙芝居より、入植地を離れる団員たち(編集・絵、峠尚代さん)
1945(昭和20)年8月、旧ソ連軍の国境越えを機に、満蒙開拓団の過酷な逃避行が始まる。そして高橋村(豊岡市但東町)の開拓団は、肉体的にも精神的にも厳しさを増す中、自決へと追い詰められていった。
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開拓団にいた石坪馨(かおる)さん(86)と山下幸雄さん(81)の語りを続ける。
8月13日夜、蘭西県北安村の開拓団本部に電話が入った。県公署(県庁)に詰めていた副団長からだった。石坪さんが振り返る。
「安全のために、土塀で囲まれた蘭西県城まで一時的に避難せよということで、各集落の班長が避難の準備をするよう言って回りました。それから朝まで寝ずに、持っていくもんと置いておくもんを分けたんですわ」
山下さんの家族も深夜から避難の準備を始め、現地で親しくしていた中国人家族に家財や家畜を託した。
「荷物を預けたのは私の友だちでした。大人同士の交流もあって食事を作って食べさせたり、向こうの家で食べたり。泣いて別れたんを覚えています。『荷物は全部私たちが見ときます。10年、20年先でも戻ってきてください』と言われました」
終戦から37年後、山下さんは開拓団関係者の慰霊団の一員として訪中し、別れた友人を捜した。
「現地の人に名前を書いてどうしたと聞くと、『こう(手で首を切るしぐさ)だ』と言うんですね。荷物を渡さんよう抵抗したんと違いますか。現地の人たちも相当な目におうとるんじゃないかと思います」
8月14日、蘭西県城に馬車で着いた。がらんとした光景だったと記憶する。
「大人は殺気だっとるし、これは最期のときがきたな、助かりっこないなと子どもながらに思いました。雰囲気で分かりますわ」
(森 信弘、若林幹夫)