(15)日本の山影見えバンザイ

2015/03/01 11:55

かつての高橋村の風景=豊岡市但東町、高橋地区公民館提供

 満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)によると終戦時、旧満州には軍人を除いて約150万人の日本人が残っていたとされる。引き揚げが始まるのは、終戦翌年の1946(昭和21)年5月のことだ。石坪馨(かおる)さん(86)たち高橋村(豊岡市但東町)の開拓団はこの年の10月6日、引き揚げ基地のコロ島の港から船艇に乗り込んだ。当初476人いた団員は119人になっていた。 関連ニュース 甘くきめ細やか夏大根 新温泉町・畑ケ平高原で収穫 日本城郭協会理事長 出石城と有子山城の価値解説 豊岡の魅力、SNSで発信 市が若者向けに


 「天気は大荒れでね。私らは船底に入れられたんだけど、むしろが敷いてあるだけ。船酔いして吐いて、臭いがきついからまた別のもんも吐く。かなわんかったけど、船にさえ乗っとったら帰れる、辛抱しとったら帰れるんだと励まし合っとったんです。日本の山影が見えたときは、そらうれしかったですね。それこそバンザイをしとる人もあるしね」

 10月10日、佐世保に上陸。そこから列車で明石に向かった。

「明石まで高橋村から迎えが来て、汽車で上夜久野(かみやくの)に行き、トラックに分乗しました。村の集落に入る橋まで来たとき、ようやく帰ってきたなと。もう、うれしさだけでしたね。村に残ってたじいさんたちが、橋の上まで迎えに来てくれて。親戚が集まり、その夜は午前1時ごろまで話をしてました」

 家族が自決し、12歳で孤児になった山下幸雄さん(81)も故郷の土を踏んだ。

 「難民収容所では、とにかく笑って歌おいやと。ドラム缶が太鼓で、瓶に水入れてドレミファの楽器と、いろんなことを工夫して、力いっぱい生き抜こうと常に言っておりました。帰国が決まったときは天にも昇る気持ちで。私はもう、誰一人待っとるわけではないんだけど、同じ死ぬんでも、日本の港に着いてから死にたいという気持ちがあったですね」
 「ただ、帰ったのはええんだ。しかし生きとるんだから生活をせなあかん。その不安が私にはありました。誰が養ってくれるんだ、家も売ってしまったと聞いとるし。私の場合、養うもんの相談とかで手間も取ったんじゃないかと思います」

 満州行きを反対し、村に残った祖父は45年1月に亡くなっていた。山下さんは親類の家に引き取られることになった。
(森 信弘、若林幹夫)

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