(17)42年後の夏 さあ帰ろうで

2015/03/03 11:14

42年ぶりに集団自決現場を訪れた元開拓団員たち=1987年8月21日、記録「国策に散った開拓団の夢」より

 高橋村(豊岡市但東町)の開拓団の集団自決から42年後の夏。1987(昭和62)年8月21日、遺族ら22人が慰霊のため、旧満州ホラン河の自決現場を訪れた。石坪馨(かおる)さん(86)は一行の副団長を務めた。遺族らは、その5年前の82年にも37人で訪中したが、日中間で持ち上がった教科書問題の影響で現場に行くことはかなわなかった。石坪さんは語る。 関連ニュース 甘くきめ細やか夏大根 新温泉町・畑ケ平高原で収穫 日本城郭協会理事長 出石城と有子山城の価値解説 豊岡の魅力、SNSで発信 市が若者向けに


 「2回目の訪中で、やっと現場に行けて。自決した母と弟はもちろん、一緒に来られなかった遺族の分も、亡くなった人の名前を呼んで『私の背中にくっついて、日本に帰ろうで』って呼びかけたんです。当時のことが浮かんでね、そら泣けますわいね」

 農協職員だった山下幸雄さん(81)は82年、87年とも訪中団の事務局を担った。山下さんが振り返った。

 「1回目は、蘭西県の職員が『こっから先は行くな』と言って、厳しいもんでした。なんとかせなならんと、但東町で蘭西県や隆安(旧北安)村の皆さんを招待して、京都や奈良を見物してもらった。交流を深めて『もういっぺん来てください。必ず現地まで連れて行きます』と言われて、2回目の訪中が実現したんです」

 87年の訪中では、ようやく自決現場には行くことができたものの、慰霊の様子を撮影することは禁止された。

 「300人近くが亡くなっとるとこですし、なんとしてもお経さんあげてもらって、慰霊をするということだけが本命でした。着いてみると水がなくて、思ったより急峻(きゅうしゅん)な崖みたいなとこだったですね。土を袋に入れてね、骨の代わりに持ち帰ったんです。手を合わせたら涙が止まらなんだですね、やっぱり。長い間申し訳なかった、さあ皆さん帰ろうでと思いましたね。やっと大仕事が済んだという思いでした」
 
 その後、トラクターに引かれた荷車に乗って蘭西の街まで戻った。誰もが無言だった。

 「話はどなたもしない。蘭西からはバスでした。ちょうど夕日が沈むころ、歌でも歌いましょいやとなって。『戦友』ゆう軍歌がありまして、『ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕日に照らされて』と。小さいころから歌いこなしたもんで、最後14番まで歌いました」
(森 信弘、若林幹夫)

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