【4】幼い子の写真、手に絶命

2015/08/21 11:09

ビルマ(現ミャンマー)

 ビルマ(現ミャンマー)に渡った今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)=宝塚市=たちの歩兵第168連隊は、「断作戦」に参加する。ビルマ北部の周辺で、連合軍が中国国民党政府に物資を送る「援蒋(えんしょう)ルート」を遮断する狙いだった。1944(昭和19)年の秋。今里さんは、中国との国境に近いバーモ付近にいた。そこには飢えや病気、けがで苦しむ敗残兵たちがあふれ、「殺してくれ」と今里さんの下半身にしがみついてきた。 関連ニュース 関学大 34カ国巡り世界の教育知る スー・チー氏、法王と会談 外交関係樹立で合意 ロヒンギャ迫害調査に反発 EU要求にスー・チー氏


 「あのころは、手りゅう弾も、自決のためには渡せんようになってましてな。補給がないんやから大事に使わないかん、と。上からの命令で手りゅう弾は渡すな、敵に投げてくれ、というふうになってきてたんです。ビルマに渡って最初の散発的な戦闘では、そんなけちくさいこと言われんかったけど、時間がたってくれば貴重品ですわな。だから『殺してくれ』とすがりつかれても、水筒の水を飲ませるんが精いっぱいでしたわ」

 「年のいってる召集兵がね、木の陰で写真を持って見とんのや。『どないや』と肩をたたいたら、ドスンと倒れる。首筋にうじ虫がわいとった。見とったんは、幼い子どもの写真や。これにはドキーッとしたね。それで、写真をその人のポケットにしもたったんですわ。木にもたれさせて、そのまま置いとかなしゃあなかったね」

 既に、日本軍が戦局打開を狙ってビルマからインドに攻め込んだ「インパール作戦」は惨敗し、44年7月に中止。北部でも米軍の支援を受けた中国軍が攻勢を強めていた。同年9月には、ビルマに近い中国・雲南省の拉孟(らもう)と騰越(とうえつ)(現在の龍陵県と騰冲県)で、日本軍の守備隊が玉砕していた。

 「どこからか退却中に落後して、さまよってたんでしょうな。まだ生きてるもんも、連れて帰れるような状態じゃなかった」

 その後、今里さんたちは、断作戦の一環で、中国軍の攻撃を受けるバーモの守備隊救出に臨む。

 「ビルマへ来て、まだそれほど戦闘をしてないので、最低限の弾は持っとる。せめて、ここ(バーモ)だけは助けないかん、と。そうでなければ、われわれは何のために来とんねん、と思っとったんです」(森 信弘)

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