【5】「よくやった」で死ねる
2015/08/23 10:18
太平洋戦争当時、ビルマのジャングルを進む日本兵
1944(昭和19)年12月上旬、中国との国境に近いビルマ(現ミャンマー)北部のバーモ。日本軍の守備隊は中国軍に包囲され、全滅の危機にさらされていた。救出作戦が始まり、歩兵第168連隊の無線分隊も加わった。分隊長だった今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)=宝塚市=が振り返る。
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「中国軍がね、服装から装備、戦闘様式まで、完全なアメリカ式になってまんねん。相当、教育も受けとるわけや。それまでに出会った中国兵は服がばらばらやったり、番傘持って来とったりしたんですよ。それが今度は支給された制服を着てね。日本軍より優秀な機関銃を持って攻めてきたんですわ。なるほど、これは(ビルマに近い中国・雲南省の)拉孟(らもう)と騰越(とうえつ)(現在の龍陵県と騰冲県)の守備隊はやられるはずや、すごいのが来たと思ったね」
旧防衛庁が編集した戦史叢書(そうしょ)によると、今里さんらの救出部隊はバーモ南東の高地で中国軍を急襲し、守備隊を支援。部隊本部が集中砲火を受けるなど次第に戦況は悪化したが、脱出を助けるために踏みとどまった。
「私らは、山の谷間に入ってしもてな。周りが森林で、無線の信号が聞き取りにくいねん。雑音ばっかりでなかなか入ってこんかったけど、辛うじて受信ができたんやな」
そして、12月15日の朝。守備隊は一斉射撃を受けながら敵中突破を敢行、救出は成功した。だが、一連の戦いで約1200人いた守備隊のうち約280人が戦死し、救出する側も多くの犠牲を払った。そのころ、今里さんは亡くなる寸前の兵に接するうち、あることに気付く。
「やっぱり人間の一番最後はね、褒めてやらんと死ねまへんねん。部下が弾に当たって苦しんでるときは、抱き起こして『お前はよくやった』と功績を褒めてやるとね、コトンと逝くんですわ」
「それが、息も絶え絶えやのに手が回らんでほったらかしになっとったらね、翌朝まで生きとる。『水くれ、水くれ』と。それで、水をやって『ようやったな』と声を掛けたら、やっと死ねるんです。人間は存在価値を認められないと死にきれん。これはねえ、はっきりしてますわ」
今里さん自身、45(昭和20)年に入ってからの戦闘で、九死に一生を得る体験をしている。
「上りの斜面に伏せて、部下の黒岩という上等兵の足を握っとったんや。そしたら迫撃砲が、その頭に直撃してね。私の背中の発電機にも破片が当たったんや。黒岩は即死ですな。私も平らな所やったら即死やけど、角度があるから助かったんやね。そやけど、伏せて上に向けとった左耳がね、もう全然聞こえなくなりましたな」(森 信弘)