【14】部下の遺骨泣く泣く海へ

2015/09/01 11:11

手元に資料を置き、ビルマ戦線の記憶をたどる今里淑郎さん=宝塚市宝梅2(撮影・峰大二郎)

 1945(昭和20)年の7月ごろ、ビルマ(現ミャンマー)の南部まで敗走してきていた陸軍第49師団通信隊の今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)=宝塚市=は、軍曹から将校の少尉に昇格する。それまでの激戦で将校が不足していた。今里さんは、ビルマ北部バーモの守備隊救出作戦で功績をたたえる賞状「感状」を受けていたため、2階級特進した。そして、8月15日の終戦を迎える。 関連ニュース 関学大 34カ国巡り世界の教育知る スー・チー氏、法王と会談 外交関係樹立で合意 ロヒンギャ迫害調査に反発 EU要求にスー・チー氏


 「やれやれ、と思ったね。その1年前やったら戦う気もあったけど、もう弾も人もなくて八方ふさがりでした。やっと終わった、とほっとしましたね」

 捕虜となった今里さんは、タイとの国境に近いパプン周辺で、戦時中に陥没した道路の補修などの労働をさせられた。翌46(昭和21)年の6月。ビルマ南部のモールメンの港からようやく帰国できることになり、英国の商船に乗り込んだ。

 「そん時、戦死した部下の指の遺骨を5、6人分だけ持っとったんですわ。紙でくるんで名前を書いて軍服に縫い付けとったんです。ところが英国兵からの命令で、遺骨を持ち帰ることはならん、と言われたんですわ」

 「戦死したら、小さな指だけ焼いて、死体は埋められたらいい方でした。軍刀でまず指を切るでしょ。それと細く切った竹を缶に入れて、燃やすわけですわ。細い竹は煙が出んから、敵に見つからんのです」

 「それを捨てろと言われて。英語が達者なもんがおらんから、反論できんのですわ。命令に従わんと、私らは帰らしてもらわれへんかもしれんと思ってね。海に流したわけです。あの時は泣きました。向こうが遺骨へのこちらの思いを知らんかっただけかも分からんし、通訳した日本兵が拡大解釈したのかもしれん。後で検査も何もなかったんですよ。英語で反論さえできとったらね。ほんまに情けなかったね」

 船は広島県の大竹港を目指した。1カ月ほどの航海で、ついに日本の陸地が見えてきた。

 「みんな甲板へ出て『うわーっ』と大きな声で叫ぶんですよ。骨と皮だけになった兵隊がね、どこにそんな力があったんやという感じです。私自身も涙が出ましたよ。もう、絶対帰れんと思ってたビルマから、帰って来たんやから。それで大竹の港に着いたら、みんな腰が抜けてもてね、立ち上がられへんのや。よっぽどうれしかったんでしょうな」(森 信弘)

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