【15】娘の死を機に戦友慰霊

2015/09/02 11:11

 ビルマ(現ミャンマー)戦線で通信兵として戦った今里淑郎(いまさとしゅくろう)さん(93)=宝塚市=は1946(昭和21)年7月中旬、広島県の大竹港に上陸した。今里さんが所属していた陸軍歩兵第168連隊の戦没者名簿によると、出動した3530人のうち、復員を確認できたのはわずか694人とされる。 関連ニュース 関学大 34カ国巡り世界の教育知る スー・チー氏、法王と会談 外交関係樹立で合意 ロヒンギャ迫害調査に反発 EU要求にスー・チー氏


 「帰ってきたらね、両親は病気やけががもとで亡くなって、兄貴もフィリピンで戦死しとるわけです。次男やった私はすぐ結婚して、長女が生まれたんですわ。それが、へその緒からばい菌が入って1カ月ほどで亡くなってしもたんです。赤子の笑う顔いうたら、最高の喜びなんですけどね。自分の“宝物”が5分ごとに顔をしかめるのに、どうすることもできない。そしたら、娘の顔にビルマでの戦友の顔が重なったんですわ。娘が命をささげて戦友の慰霊をしてくれと忠告してると。それで初めて、ちゃんと慰霊をせないかん、と思ったんです」

 長女が亡くなったのは1948(昭和23)年4月だった。今里さんは、会社勤めを経て医療機器メーカーを創業。その一方で僧侶になるための修行を重ね、国内で戦死者の供養を続けた。78(同53)年2月には、戦友らと戦後初めてビルマへ渡り、多くの仲間が命を落とした中部の都市、メイクテーラを訪ねた。

 「幻やと思うけど、私がお経を読み上げたらね、ざーっと戦友たちが目の前に出てきたんです。ほんまに感激しました。彼らがいかにわれわれを待ち焦がれてたか、ということをますます思いましたね。それから、ビルマで慰霊を続ける気になったんですわ」

 今里さんらは、90年代から数年ごとに同国を慰霊に訪れる。そして、99(平成11)年2月。全国にあるビルマ戦線の戦友会や日本政府などと協力し、最大都市のヤンゴン(旧ラングーン)に1ヘクタールを超える広大な日本人墓地霊園を完成させた。

 「完工式典では、ナンネリーさんという元戦車隊長ら英軍の元兵士17人が来ましてな。戦時中はもちろん、『あの野郎』と思てた人らです。会うまでは何言うたらええか分からんし、戸惑いもありました。それが式典の後、にこにこして寄ってきてね、抱き付いてきてえらいこっちゃったんです。お互いに『あんたが憎くて戦ったんやない。国と国との戦いやから』『友人や、友人や』というような話をしました」

 「その日は盛り上がって大成功やったわけです。あの人らがバスに乗ってからも、手を振り合ってました。また会いたいという気持ちになりましたな」(森 信弘)

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