【1】軍機関「生きろ」と教育
2016/08/14 12:01
陸軍中野学校二俣分校に入った経緯や独特の教育内容を振り返る井登慧さん=明石市二見町東二見(撮影・大山伸一郎)
太平洋戦争末期、各地の戦闘で玉砕や全滅が相次ぐ中、陸軍は、正規軍から独立して個別に動く遊撃(ゲリラ)部隊を編成し、各戦線に投入した。その幹部を養成した秘密機関「陸軍中野学校二俣分校」(現浜松市)は、潔く死ぬことを説いた戦陣訓の心構えを否定し、捕虜になってもなお生き残るよう教育したという。シリーズ「戦争と人間」第8部は、二俣分校の1期生だった明石市の元教員、井登慧(いとさとし)さん(93)の語りを紹介する。(小川 晶)
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日本軍が守勢に回り、「絶対国防圏」のサイパン島が陥落した1944(昭和19)年7月。当時21歳の井登さんは、騎兵部隊の将校を養成する「陸軍騎兵学校」(現千葉県船橋市)の卒業を間近に控えていた。そこに教官から突然の呼び出しが掛かる。指定された会議室に入ると、長机の向こう側に面識のない将校が4、5人座っていた。
「背もたれのない丸椅子が一つ置いてあって『座れ』と。この場が何なのか説明もないまま、出身地や家族構成に続いて、いきなり『いつでも死ぬ覚悟を持っているか』と聞かれました。そりゃあ、覚悟はありますから『はい』と答えました」
「そうしたら『死んでも遺骨は親元に帰らない。それでもいいか』ちゅうてね。戦死したら、どこでどういうふうに死んだかとか、骨と一緒に家族に伝わると思ってたもんで、戸惑いましたけどね。『困ります』なんて言えへんし、また『はい』と」
10分ほどの質疑に続き、将校が唐突に「後ろを向け」と指示した。しばらくして合図があり、正面に向き直った井登さんは、こう問い掛けられたという。「この長机の上に何が置いてあったか」
「夢中になって面接を受けてたから、あんまり覚えてなかったです。確か、いろいろ10種類ぐらいあったんやけどね。灰皿、万年筆、たばこ…。何となく記憶に残っていた物を思いつくままに四つ、五つ言いました。そうしたら『よし』と。答え合わせも何のための面接かも説明されんまま、『帰ってよろしい』と言われました」
「これが二俣分校の試験だったんですね。入ってから同期生と話してたら、そんな体験をした人が多くて。最後の質問は、半分ぐらい答えられたらよかったみたいです。『全然分かりません』だったら、秘密戦には不適格と判断されたんじゃないでしょうか」
「どういう基準で、誰が面接を受けたのかは分かりません。騎兵学校の同期では、50人ぐらいの中から5人が二俣に行きました」
不可解な面接を経て入校が決まった二俣分校で、井登さんはある人物と同期生になる。命令を守り続け、フィリピン・ルバング島のジャングルに戦後30年近く潜伏していた故小野田寛郎(ひろお)さんだ。
【陸軍中野学校】日本の軍制史上唯一とされる秘密戦要員の養成機関。日中戦争勃発翌年の1938年、前身となる組織が創設された。その後、移転した東京・中野の地名を取って改称、参謀本部直轄に。学生は予備士官学校などから選抜され、敵地に潜入して情報を収集、捕虜になっても任務遂行に徹する教育を受けた。44年には二俣分校を開設。本校と分校を合わせて2千人超を輩出した。