【3】農民に変装バーで聞き耳
2016/08/16 12:11
陸軍中野学校二俣分校の出身者らの会合で記念写真に納まる井登慧さん(右)と小野田寛郎さん=2007年5月(井登さん提供)
1944(昭和19)年9月、見習士官として「陸軍中野学校二俣分校」(現浜松市)に入校した井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市=は、「謀略」「潜行」「破壊」など独特の教育を受ける。
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「全てにおいて気が抜けないんです。行軍で川を渡ったところで、教官が突然質問してくる。『今渡った橋の長さは』から始まって、『川の水深は』とか、『どのくらいの量の爆薬があれば橋を壊せるか』とか。ぼんやり歩いとったらいかんちゅうことなんやね」
「農家に下宿して、農民の服で鍬(くわ)を担ぎながら1週間暮らしたこともありました。変装して敵の陣地に潜入する訓練ですね。バーで酒も飲みましたよ。いろんな話が集まる所だから。情報を取るためなら少々の遊びは許される感じでした」
井登さんら二俣分校1期生が戦後に著した「俣一(またいち)戦史」には、教官らから受けた特色ある指導がいくつも載っている。「芸者遊びをしたことがない者は役に立たないぞ」「軍隊要務の典範令ではなく、マルクスの資本論を読め」。ただ、井登さんが最も印象に残っているのが、培ってきた軍人精神の否定だった。
「それまでは『いつでも命を投げ出せ』ちゅう教育だったんです。捕虜になるなら死ね、最後は突撃だと。陸軍騎兵学校では、教官から『貴様らはまだ生への執着がある』って言われて、真っ裸で雪の上に正座して軍人勅諭を朗読してね」
「それが、二俣分校では『死んだらいかん』『捕虜になってもいい』って。任務を重んじ、とにかく生き延びてそのとき、その場で判断して臨機応変に戦えと。捕虜になっても、敵にデマを流したり、情報を取ってきて味方に伝えたりしろと。人間一人でも大きな力を発揮できるという教育ですからね」
「『とにかく死ね』より、『1人になっても頑張れ』という方が確かに合理的。納得できましたね。ただ、『これまでたたき込まれてきたことが何だったのか』とは思いましたよね。死ぬことを散々、美化しておいて」
井登さんの同期生だった故小野田寛郎(ひろお)さんも、俣一戦史で「俺にふさわしい闘い方」と表現し、二俣分校で養われたという精神をこう記している。「大切なのは、誠の心。誠さえあれば、どんな苦難にも耐え抜くことができ、その苦しみが最後の勝利となって実を結ぶ」
「二俣分校におったのは、幹部候補生の中から選抜された者たちですから皆、真面目なんです。その中でも小野田は特に真面目で、演習でも何でもとにかく必死にやってましたね。だから、小野田が戦後もフィリピンに潜伏して秘密戦を続けていたことが分かった時も、『あの小野田なら』というのが率直な感想でした」(小川 晶)