【7】教員生活わずか9カ月
2016/08/20 08:07
兵庫県師範学校に進んだ井登慧さん(前列右から2人目)ら旧制小野中学校出身者の集まり。数少ない息抜きの場だったという(本人提供)
旧制小野中学校(現兵庫県立小野高校)を卒業した井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市=は、1940(昭和15)年4月、兵庫県師範学校(現神戸大発達科学部)に入学した。「全寮制で、とにかく厳しい2年間でした」。同校での生活をそう振り返る。
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「阪急の御影駅から山の方へ上がっていった所に校舎がありました。今のような住宅街もなくて、甲南病院と師範学校だけがある感じでした。学校のすぐ近くに寮があって、神戸に住んでるもんでも入らなあかんかって。1学年で5学級、200人ぐらいおったように記憶しています」
「寮生活は軍隊と一緒ですわ。朝は起床の点呼があって、運動場に整列して体操です。夜も点呼があって、室長が『異常ありません』とか報告して。三宮やらに遊びに行って、ごっつ怒られとった同級生がおりましたね。国民を教育する立場になるからでしょうかね」
「(後に入校する)陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校の同期には、師範学校の卒業生が多かったんですよ。厳しい教育を経験していたというのが大きかったと思います。遊撃(ゲリラ)戦では、現地の住民たちの協力を取り付けて指導することもありましたから、そういう能力を評価されたところもあったかもしれませんが」
太平洋戦争開戦の翌42(昭和17)年春、師範学校を19歳で卒業した井登さんは、南須磨国民学校(現神戸市立鷹取中学校)に赴任。現在の中学2年に当たる高等科2年の学級担任となる。
「神戸市内に下宿して、市電で通ってました。戦争いうんがだいぶ身近になっとってね。運動会でも、私の詩吟に合わせて子どもたちが剣舞を披露しましたね。普段から『大きくなったら兵隊に行かなあかん』『天皇陛下のために死ななあかん』と当たり前のように教えてて。今からしたら考えられへんけど、当時は何の抵抗感もなかった」
「私も、年齢的に年明けには軍隊に行くいうことが分かってますからね。自分たちも教え込まれてきた通りに戦争に行くんだから、この子たちもいずれは出征するだろうと」
「あの当時は、修身ていう道徳教育も戦争のため、武道で体を鍛えるのも戦争のためでした。私らは師範学校で徹底的にしごかれとるし、『自由に考えなさい』なんて発想、教える側にも教わる側にもない。教育内容に疑問を挟む余地なんてなかったです」
井登さんによると、当時の教え子は戦地に行かずに終戦を迎えたといい、それが「せめてもの救い」だと言う。一方、井登さんは、男子に義務付けられていた徴兵検査に甲種合格。わずか9カ月で教壇を離れ、43(昭和18)年1月、姫路市に拠点があった陸軍第10師団に入隊する。
(小川 晶)