【9】台湾で先住民をゲリラに
2016/08/24 11:58
台湾で高砂族の遊撃隊を指揮していた当時の井登慧さん
「陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校」(現浜松市)の課程を終え、1944(昭和19)年12月、大阪の中部軍司令部に配属になった井登慧(いとさとし)さん(93)=明石市。見習士官から少尉に任官し、45(昭和20)年1月、台湾への転属を命じられる。
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「正規軍とは別に、『高砂族』と呼んでいた先住民の志願兵で編成した遊撃(ゲリラ)部隊を教育する、と。その幹部として呼ばれたわけです。連合軍がフィリピンに上陸を始めとった時期やから、台湾も危ないとなったんでしょうね」
「二俣分校の同期生で中部軍から私を含め5人と、東京の東部軍から5人。私は福岡の雁ノ巣(がんのす)飛行場から向かうことになったんですけど、2日間待機になって。無線か何かで、敵の飛行機が待ち構えとるのが分かったみたいです」
「台湾に行くのすら危ないんやから『日本、大丈夫か』とは思いましたね。3日目にようやく小さな輸送機が出て、運よく敵に遭遇せんと着きました。新高山(にいたかやま)が見えてきて、ほっとした記憶があります。今は『玉山(ぎょくざん)』いう名前ですね。富士山よりも標高が高くて、『ニイタカヤマノボレ』いう真珠湾攻撃の暗号に使われた山です」
日清戦争の講和条約が結ばれた1895(明治28)年から台湾を統治下に置いていた日本。台北の司令部に中野学校本校の1期生がいて、台湾各地に配置された出身者を束ね、情報を集約していたという。司令部に到着した井登さんは、1週間ほどかけて高砂族の習性を学んだ。
「高砂族は、一つの民族やなくて、山地で暮らす幾つかの先住民族をまとめて日本が付けた呼称なんですね。言葉も違うから、日本語が共通語のようになってました」
「彼らの住んどる集落を『蕃社(ばんしゃ)』いうとったんですけど、台湾各地の蕃社に日本の警察官が入っていって言葉を教えとるわけです。だから、ようしゃべれるんですよ」
「先輩の将校が、宿舎へ高砂族の兵隊を15人ぐらい呼んでくれてね。どぶろくみたいな酒を飲みながら歌を盛んに歌ってね。気勢を上げて、歓迎してくれて」
「台湾小事典」(中国研究所編集)などによると、日本は、1930年代以降の中国侵略に合わせ、日本語を教え、日本人と同じ姓名を付けさせるなどした皇民化政策を強化。志願兵制度や徴兵制も導入した。
統治下では、日本人の子どもら約140人が殺害された30(昭和5)年の「霧社(むしゃ)事件」など先住民による抗日暴動もあったが、井登さんが高砂族と触れ合って抱いた当時の印象は「日本に心からの忠誠を尽くす民族」だった。
(小川 晶)