【2】徴兵待たず海軍に志願
2016/12/08 12:22
海軍に志願したころを回想する嶋田好孝さん=神戸市兵庫区湊町4(撮影・風斗雅博)
朝鮮戦争で機雷掃海任務に携わった嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=は、山に囲まれた鳥取県日野町で3人兄弟の長男として育った。高等小学校を出た1940(昭和15)年4月、15歳で大阪の鋳物工場に働きに出る。今からちょうど75年前の翌41年12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃、太平洋戦争へと突き進んでいく。
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「本当は学校を出たら海軍に志願したかったんです。親戚のおじさんが潜水艦乗りで、紺色のセーラー服でさっそうとしてまして。みんな、小さい頃から兵隊ごっこをして軍人に憧れてましたよ。でも、お袋に『死に急ぐな』と言われ、働くことにしました」
「休みの日、大阪・浜寺に海水浴に行ったら海軍の軍楽隊が来たんです。勇ましい曲ばかりで格好良くて。それで、やっぱり海軍に行こうと決めました」
嶋田さんは43年、徴兵を待たず18歳で海軍に志願する。44年2月、大竹海兵団(広島県大竹市)に配属され、新兵教育が始まった。既に戦況は悪化の一途をたどっていた。
「入団時、軍楽隊を希望したんです。そしたら『この大事なときに何を考えとるか』と怒鳴られましてね。入団後も(海軍の)陸戦隊に行きたいと言ったらまた怒られて。日中戦争を描いた上海陸戦隊という映画に影響されたんですけど『じゃあ、なんで陸軍に行かんのか』と。どこがいいか分からんから、かっこいいと思った所に行きたかったんです」
「選抜試験を受けたかどうかは覚えてませんが、3カ月間の新兵教育の後、上官の勧めで横須賀(神奈川県)の海軍航海学校に入ったんです。攻撃を受けた際の被害対応を学ぶ運用術応急練習生でした。学校を出たのは8月終わりごろだったと思います」
嶋田さんはすぐに、山口県・柱島付近で訓練をしていた戦艦「日向(ひゅうが)」に乗り込む。空母の減少に伴い、後部を飛行甲板に改装した「航空戦艦」だった。
「私の仕事は伝令と記録ですね。デッキより下にある電話交換室に待機し、現場から火災や浸水の報告があれば記録して、指示を出す防御室に連絡するんです」
「当時は1等兵で、先輩に尻をバットでたたかれたり、あごを殴られたりしてましたから、早く戦場に行きたかったですよ。戦闘中は、そんな余裕がないですから」
そして、日向への配属から間もない同年10月、嶋田さんは日本の連合艦隊が命運を懸けた「レイテ沖海戦」に臨む。(森 信弘)