【4】終戦、機雷捜索の日々

2016/12/11 12:34

夜の街で、嶋田好孝さんたち掃海艇乗りの男たちは飲み歩いた=神戸市兵庫区新開地1(撮影・風斗雅博)

 1945(昭和20)年8月15日、日本は敗戦を迎える。だが、米軍によって周辺海域に投下された大量の機雷が、復興の障壁となっていた。海軍をいったん除隊した嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=は46年の春頃、機雷掃海の任務に就く。


 「鳥取の実家にいたら、海軍省を引き継いだ第2復員省の職員募集を知りまして。以前、新兵教育を受けた広島県大竹市の旧海軍施設まで出かけていきました。兵隊の復員業務をやりたかったんですが、『掃海艇に乗れ』と。航海学校で操舵(そうだ)も習ったし、命令だから断れません。それから神戸を基地に小豆島(香川県)や宇野(岡山県玉野市)、今治(愛媛県)と、瀬戸内海をずーっと動いていました」

 機雷掃海は、連合国軍総司令部(GHQ)の指示によって行われた。大久保武雄・初代海上保安庁長官の回顧録「海鳴りの日々」によると、日本軍が敷設した機雷は46年夏に掃海を終えたが、鋼鉄船の磁気に反応する米軍の「磁気機雷」は難物だった。掃海任務は48年5月に創設された海上保安庁に引き継がれ、嶋田さんも海保職員となって続けた。

 「磁気機雷は海の底にあるから絶対見えない。木造船2、3隻一組で電線を引きながら縦横に何度も通り、電流を流して爆破するんです。ズバーンという音が響いて、10メートル以上もある水柱が上がる。怖いという感覚はなかったですねえ。天皇陛下のために死んで当たり前、という洗脳がまだ残っとりましたから。処分をしたらお酒が出て、船上で乾杯した覚えがあります」

 嶋田さんが乗船する掃海艇の基地は、神戸港の中突堤にあった。遠征しても給料日は帰還する決まりだった。死と隣り合わせの掃海艇乗りたちは、陸へ上がると派手に遊んだ。

 「川崎重工神戸工場辺りから新開地まで飲み屋街だったんです。神戸に戻れば毎晩飲みに行ってました。当時は他に楽しみがないから、飲むか遊郭に行くか。戦災で何もないけど、ガードの下だけはにぎやかでしたよ」
 「掃海艇乗りなら顔パスでつけがきいてね。危険手当も付いて給料払い、ボーナス払いで羽振りがいいから、どこの店でも引っ張りだこですよ。飲み屋で値段を聞いて帰ったことなんてないですから。深夜まで飲んで早朝6時に出港してました。天下太平というか、楽しい時代でしたね」

 50年6月25日、北朝鮮軍が北緯38度線を越え、朝鮮戦争が始まる。だが、嶋田さんにとってはまだ「対岸の火事」だった。(森 信弘)

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