【5】殉職したら親孝行と思え
2016/12/13 10:25
神戸港を眺め、掃海艇に乗っていたころを思い出す嶋田好孝さん=神戸市中央区東川崎町1(撮影・風斗雅博)
戦後、海上保安庁の職員となった嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=が瀬戸内海で機雷掃海をしていたころ、朝鮮半島で始まった戦争は、守勢に回った米軍中心の国連軍と韓国軍が反撃に出ていた。北朝鮮軍の機雷に対し、掃海艇が不足していた米軍は、日本政府に朝鮮半島の掃海を要請。海上保安庁水路部(東京)から半島の海図を持ち帰った嶋田さんたちの掃海艇MS03は、すぐさま下関港(山口県)に駆け付ける。1950(昭和25)年10月初旬のことだった。
「私の船の乗組員は20人くらいだったと思います。艇長から、部下たちに朝鮮へ出動することを伝えろと言われました。納得した上で出てこい、ということですね。デッキの甲板員を統括する甲板長だった私は、10人ほどを船の一室に集めて話をしました。こんなこと言っていいか分かりませんけど、万が一命を落とすことがあったら、遺族に金が出るから親孝行だと思え、と。その代わり生きて帰ったら、もらった給料で大臣遊びせえ、と言ったんです。あのころは私も20代で若かったですしね」
当時の大久保武雄・海上保安庁長官の回顧録「海鳴りの日々」によると、10月6日、連合国軍総司令部(GHQ)は日本政府に対し、掃海艇20隻などの使用を指示。「乗組員は、本任務中2倍の給与を受ける」とも告げている。
「床に座って話を聞いている部下たちは整然としてました。辞める、転勤させてくれ、という者は一人もいなかったですね」
「まだ終戦から5年ですから、仕事がなくて続けるしかないわけですよ。それに当時は予科練くずれとか、兵隊くずれとか言われたもんですけど、少しでも海軍の飯を食った者ばかりですからね。みな掃海業務が危険だと分かって船に乗ってました。じゃ、行こうっちゅうわけです」
一方、当時の能勢省吾・第5管区海上保安本部航路啓開部長の手記は、掃海隊員たちの違った側面も伝える。下関で開かれた会議で各艇長から「憲法違反ではないですか」「思わぬ事故が起きたときはどうするのですか」などと不安の声が上がり説得に努めたという。
旧防衛庁防衛研究所戦史部の鈴木英隆氏の論文「朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊」によると、結局、掃海隊員は「一部家庭の事情で下船した者もいたが、ほとんどの者が了解した」とされる。(森 信弘)