【9】戦場離脱後、再び任務に

2016/12/19 12:47

掃海具で浮上させた機雷を銃撃処分する日本の掃海隊員=1950年秋、韓国・仁川港外(「よみがえる日本海軍 上」から)

 朝鮮半島東岸の元山沖で日本の掃海艇MS14が触雷・沈没して18人が重軽傷を負い、烹炊(ほうすい)員の中谷坂太郎さんは行方不明になった。掃海艇4隻を率いていた能勢省吾指揮官(第5管区海上保安本部航路啓開部長)の手記によると、残り3隻の艇長から「米軍の戦争にこれ以上巻き込まれたくない」などと掃海中止の訴えが続出。「これ以上犠牲者を出すべきでない」と帰国を決断する。触雷した翌日の1950(昭和25)年10月18日、嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=のMS03など3隻は戦場を離脱する。


 「命令を待っている間、態勢を立て直したらまた行くという考えしかなかったですよ。危険は最初から覚悟してますから。それが艇長から『内地へ帰投する』と言われて。そして『米軍が早く帰らんと撃つぞと言ってる』と聞いたんです。脅しでしょうけど、いったいどうなっているんだと」

 能勢指揮官の手記によると、米海軍のスミス少将は予定通りの掃海の続行を求めた。日本側は小船艇も使った慎重な掃海を提案したが、米軍は時間的余裕のなさなどを理由に却下。スミス少将の意向として、田村久三総指揮官から「しからずんば日本に帰れ。その15分以内に出なければ砲撃する」と知らされた、としている。

 「上は人命を気にしたのかもしれんが、帰ると言われても意味が分からないんです。4隻のうち1隻がやられて、2隻一組じゃないと仕事ができないから戻るのかな、と思ってました。内地に帰れるからうれしいとは思わなかったですね」

 記録によると10月20日午後2時、離脱した掃海艇3隻は下関港(山口県)に戻った。だが、任務途中の帰国に対し、米軍は能勢指揮官と艇長3人の処分を要求し、掃海隊は再編成される。そして嶋田さんたちのMS03は再び任務に就くため、朝鮮半島西岸の南浦沖へ向かうことになる。

 「私たち乗組員も全部入れ替えると聞きまして。なんちゅうことかと。朝鮮海域へ行くときに命を落とすかもしれん、と承知の上だったんですよ。命令の通り動いただけです。私は新しい艇長に食ってかかりました。そしたら入れ替えはなくなったんですが、新しい甲板長が来たんです。私は次長に格下げになってしまいました」

 同年12月15日、日本の特別掃海隊は約2カ月に及ぶ任務を終え、編成を解かれた。処分した機雷は30個近くに上った。しかし、中谷坂太郎さんの死は伏せられたままだった。(森 信弘)

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