【10】弟の死米軍将校が口止め
2016/12/20 12:01
中谷坂太郎さんとの思い出を語る兄の藤市さん=大阪市浪速区(撮影・風斗雅博)
朝鮮半島沖で嶋田好孝さん(91)=神戸市兵庫区=とともに機雷掃海に臨み、21歳で亡くなった中谷坂太郎さん。その死から1週間ほどたったころ、のどかな空気に包まれた瀬戸内の屋代島(山口県)にある中谷さんの実家に米軍の将校らが現れた。兄の藤市さん(89)=大阪市浪速区=が語る。
「米軍の将校2人と通訳1人、海上保安庁の職員2人の5人が来たそうです。私は大阪に出とったんで、父と姉が対応しました」
「弟が朝鮮海域の機雷掃海中に触雷し、行方不明になったが、日本は憲法で戦争放棄をうたっている。もし、これが公になったら国際問題になる。一切口外しないでほしい、と。知人に消息を聞かれたら『瀬戸内海で掃海中に触雷して遺体が上がっていないと答えてくれ』と言われたらしいんです。穏やかな調子だったらしいけど、厳しいかん口令が敷かれたわけですね」
藤市さんは姉の手紙で父が悲しみに暮れていると知らされ、実家へ帰った。母は夏に病気で亡くなったばかりだった。
「父からは、もし公になったら親戚一同、米軍に引っ張られて闇に葬られるぞ、と言われました。だから弟を失ってがくぜんとするだけじゃなくて、恐怖感がありましたね。それ以降、絶対に口外しないでおこう、と家族で決めたんです」
中谷さんの葬儀は1950(昭和25)年10月27日、所属していた海上保安庁第6管区海上保安本部の広島県呉市にある関連庁舎で盛大に営まれ、父と姉婿が参加した。ただ、文書による死亡通知は一切なかった。日本政府からの補償もない代わりに、米国から100万円単位の多額の弔慰金が支払われた。藤市さんは口止め料と受け取った。
「弟は豪快な性格だったんですけど、家族のことを絶えず心配してくれとりました。実家は、私が出るまで11人で暮らしてまして、そこへ毎月3千円ほど送金してくれとったんです。家族愛があって面倒見のいい弟でした。朝鮮海域へ出動する半年ほど前でした。神戸で私を掃海艇に泊めてくれたんです。木造で真っ黒けに汚れた船です。職探しをしていた私に食事を作ってくれて、帰りはリュックに米をこっそり入れてくれてね。それで飢えがしのげたんです」
「何人か同僚にも会いましたけどね、親分肌で非常に慕われておったようです。船の食事担当でしたから、もし殉職してなかったら、私を頼って大阪に出てきて食堂を経営しとったんじゃないかと思うんです」(森 信弘)