【1】広東派遣
2018/08/12 12:58
従軍看護婦の経験を語る藤田きみゑさん=兵庫県稲美町国安(撮影・斎藤雅志)
軍隊に従って戦地に赴いたのは、男性だけではない。兵庫県稲美町の藤田きみゑさん(98)は従軍看護婦(現看護師)として日中戦争さなかの中国大陸に渡り、命を落とす何十人、何百人の兵士と接してきた。「普通の少女」が、なぜ「軍属」として戦争に参加し、何を直視したのか。シリーズ「戦争と人間」第10部では、中国での3年半余りの回想を紹介する。(小川 晶)
関連ニュース
西脇工エース新妻遼己、都大路を心待ち 花の1区で「1番手」狙う 全国高校駅男子22日号砲
環境に優しいヘアリーベッチを稲作に 田にすき込むと天然肥料、温暖化防止にも一役 東播磨
返礼品に1200万円のドームテント、高額所得者にPR 加東市ふるさと納税 山国地区産山田錦の日本酒も
「両腕をもがれ、担架の上でうめき苦しむ。腸チフスにかかり、もだえ死ぬ。悲惨な姿に心が乱れたけど、それもいっときだけ。結局は『お国のためだ』って納得していました。戦争熱に浮かされて、ロボットみたいになっていた。マインドコントロールやね」
1941(昭和16)年1月、大阪陸軍病院金岡分院(現堺市北区)の看護婦だった当時20歳の藤田さんは、中国南東部の広東に派遣された。
「別に『軍国少女』やなかったですよ。ただ、うちの家族は兄もいましたけれど、兵隊になってない。『1戸に1人はお国の役に立たなきゃ申し訳ない』、そういう心境でしたね」
勤務先は、現在の広州にあった広東第一陸軍病院。38年に日本軍が広東を占領した際、地元の中学校に急造した施設だった。
「校舎が病棟で、職員宿舎がそのまま私たちの宿舎。冬やったから厚手の服をたくさん持ってったけど、暑くて全く着なかった」
「病院には、軍医と衛生兵、それに私ら看護婦がいた。患者はみんな兵隊さん。働き始めたころは内科的な処置が主やった。腸チフス、パラチフス、赤痢。生水を飲んだんでしょうね。皮膚病も多かった」
中国に渡って1年近くたった41年12月8日、太平洋戦争が始まると、院内の雰囲気は一変する。英領の香港に上陸する際の戦闘で負傷した兵士が、次々と搬送されてきた。
「3日間、宿舎に帰れないこともあったし、就寝中の呼び出しもしょっちゅう。朝も晩も、軍用トラックで運ばれてくるんです。骨折したり、腕や脚をなくしたり、大けがばかり」
「それなのに、処置が終わって入院するころには、みんな表情が明るいんです。仲間と一緒におるから、泣いてもいられなかったのか。私と同じように『戦争だから』って納得させとったんでしょうかね」
今でも忘れられない兵士がいる。30歳手前ぐらい。やけどで入院してきた。
「『お姉さん、あまーいおはぎが食べたい』って、そんなこと言うてました。人なつっこい性格でね」
「毎日、ガーゼを替えてあげるんだけど、全身ひどい状態ですねん。私は配置換えで病棟を移ったんで、その後は知りません。たぶん亡くなったでしょうね」