【2】空襲激化
2018/08/14 09:34
広東第一陸軍病院の外科病棟前で。最前列で腕を組む男性の後ろが藤田きみゑさん(本人提供)
元従軍看護婦の藤田きみゑさん(98)=兵庫県稲美町=は、1941(昭和16)年1月に中国・広東へ渡り、傷病兵の看護に当たっていた。太平洋戦争の戦局悪化につれ、敵機が姿を現すようになった。
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「夜も昼も上空を飛ぶんですわ。そのたんびに空襲警報が鳴って。お風呂に入ってても、飛んで出て病棟に走った。動ける患者は衛生兵が地下に誘導して、私らは動けない患者のベッドのそばに立つんですよ」
「国際的な決まりで、病院は爆撃したらいかんと決められとるけど、万一がある。爆弾が投下されたら、がばっと患者に覆いかぶさって、身代わりになるよう訓練を受けてました」
空襲後、藤田さんがいた広東第一陸軍病院に大勢の民間人が搬送されてきたことがある。43年か44年の寒い季節だった。
「真夜中に、ドーン、ドーンと何十発も。病院には落ちなかったけど、広東の街に住んでいた日本人が、次々と運ばれてきました」
「私が勤めていた外科病棟は、手術場も治療室も廊下もけが人でいっぱい。グラウンドに止めたトラックの上でも応急手当てしました」
そんな中、深刻なけがを負った母子が、藤田さんの元へ運ばれてきた。
「お母さんは、30代くらいの身なりのきれいな人。おなかが横に二つに割れてて、意識がない。何人かで止血しましたけど、間もなく亡くなった」
「子どもは生後間もない女の赤ちゃん。片方の足首の先が飛んで血が止まらない。できるだけの処置はしたけど泣きやまない。抱っこしてあやし続けました」
藤田さんは、戦争が民間人も傷付ける現実を、初めて突きつけられたという。
「何でこんなことになるのか、何のための戦争なのか。『憎い』とだけ思いました。ただただ憎かった」
「でも、仕方ないわね。戦争のさなか、ど真ん中におるもんね。他のことなんて、考えられませんやん」
赤ちゃんの泣き声は次第にか細くなり、夜が白み始めた頃、藤田さんの腕の中で息を引き取った。
「あの冷たくなった小さな体。その後、どこに運ばれたんやろうか。今でもふと思い出すんです」
(小川 晶)