【7】帰国命令
2021/11/09 12:16
広東第一陸軍病院で衛生兵らと写真に納まる藤田きみゑさん(右端)=1941年ごろ(本人提供)
1944(昭和19)年6月、従軍看護婦として中国・広州の広東第一陸軍病院に勤めていた藤田きみゑさん(98)=兵庫県稲美町=に帰国命令が出る。
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「もともと女性軍属の外地勤務は2年間だったらしいの。でも東シナ海の制空権を失ってるから、交代要員が渡ってこられない。3年半たってようやく代わりが来て、私を含め30人が帰れるようになったんです」
「広東で病死したり、体調を崩して帰国したりした同僚もおったけど、私は『早く帰りたい』と思ったことなかったんです。それでも、いざ帰国となったらやっぱりうれしくて」
藤田さんらは、輸送船の船底にぎゅうぎゅう詰めに押し込められた。だが、なかなか船は進まない。
「1週間もあれば日本に着くのに、敵の飛行機や潜水艦がうようよしとるから、出ちゃあ戻りを繰り返して。香港で20日、台湾で18日くらい留め置かれたんかな。怖かったですね。『これがほんまの最前線なんや』って、兵隊さんの気持ちが初めて分かりました」
「船が沈められたときのために、10メートル以上ある布とロープをずっと腰に巻いてました。海に放り出されたときのフカよけって。サメは自分の体より長いものを襲わないっておまじないを、真面目に信じてました」
日中戦争以降、戦闘に巻き込まれるなどして命を落とす従軍看護婦が相次ぎ、その数は日本赤十字社の救護看護婦だけで千人を超える。幸い、藤田さんの乗った輸送船は攻撃を受けることなく、8月上旬に門司港(北九州市)に到着した。
「広東で空襲がひどくなっても、日本が負けてるなんて思わなかった。病院の会報には何機撃墜、何隻撃沈なんて戦果ばっかり載ってて、どんどん領土を広げてると思ってましたね。門司で同僚と別れるとき、『次は豪州で会おうね』ってあいさつしたぐらいで」
「実家に戻る列車で『おかしい』って気付きました。みんな表情が暗くて、黄ばんだシャツを着てるの。粗悪なせっけんしかなかったんやね。故郷の岩岡村(現神戸市西区)では、食べ物も薬も何もかも、ないない尽くし。広東は一通りそろっとったから、想像もしてなかった。箸に引っ掛からないような水っぽい雑炊が食卓に並ぶのを見て、『負けてんのと違うか』と思いました」
(小川 晶)