<戦後70年 島守の心 島田叡と沖縄戦>(1)殉職者の塔
2015/06/23 17:35
島田叡氏
■戦場に消えた知事 県民のため奔走 敬慕の証し
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海はどこまでも青く、澄んでいた。断崖に打ち寄せる波の音が響く丘に、その塔はたたずむ。
「島守の塔」。太平洋戦争末期、沖縄戦で命を失った県職員469柱をまつる。1951(昭和26)年6月25日、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)に建立された。
殉職者の名を刻む石碑の最初に「島田叡(あきら)」とある。神戸出身で、沖縄県最後の官選知事を務めた。在任は5カ月足らずだが、行き場のない住民の疎開、食料調達に奔走した。米軍の上陸後は、軍民混在の戦場で「ガマ」と呼ばれる洞窟や壕(ごう)を転々とさまよい、部下には生き延びるように告げ、消息を絶った。
人間味あふれる言葉と行動は「沖縄の島守」と慕われる。戦後の困窮の中、県民からの浄財で建立された塔はその証しだ。
◇
今年4月。塔に花を供え、手を合わす女性がいた。島田の部下で疎開業務を進めた故浦崎純の四女、屋冨祖(やふそ)なほ子(76)=那覇市。中学生のとき、塔の建立に尽力した父に連れられ、くわ入れ式や除幕式に出席した。
「戦争直後、ここは砲撃で荒れ果て、道端には遺体が山のように積み重なっていた、と父から聞きました」
凄惨(せいさん)な地上戦で、20万人以上が犠牲になった沖縄戦。浦崎は住民の苦難の記録を著書などに残した。「消えた沖縄県」(65年、沖縄時事出版社)には、島田ら県職員が南部へ撤退する際の地獄絵図が詳細に描かれる。
「しばしば目に映った痛ましい情景は、母の死体に縋(すが)って乳房をふくんでいる幼児の姿であった。この姿より悲惨な図はこの世にあるまい」
浦崎は生前、なほ子に右肩の傷を見せながら、戦争の悲惨さを語った。「砲撃から逃げるときは、自分の身を守るので必死だった。その際、気づかずに遺体を踏んでしまったかもしれない」
浦崎は痛切の念を胸に、見たままをつづった。心を病み入院したこともある。それでも筆を執り、40年前、72歳で息を引き取った。
なほ子が父の思いを代弁する。「島田さんの無念を、代わりに書き残したのだと思う」
なぜ、沖縄戦はこれほど多くの市民ら非戦闘員の犠牲を出したのか。戦場において非戦闘員を守るのは誰なのか。塔が問いかける。=敬称略=
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沖縄戦の組織的な戦闘終結から70年。県民保護に尽くした島田の信念は、今も語り継がれる。彼が残したものは何だったのか。部下の記録や生前を知る人の証言からたどる。(津谷治英)
【島田叡(しまだ・あきら)】1901年、神戸市須磨区生まれ。旧制神戸二中(現兵庫高)卒業後、東京帝国大(現東京大)から旧内務省に入り、45年1月、最後の官選知事として沖縄県に赴任。同年6月以降、消息を絶つ。当時43歳。